2015年03月20日

幽径耽読 Book Illuminationその22

  • 「映画の中の奇妙なニッポン」(皿井垂著、彩図社)
    「クール・ジャパンよりもフール・ジャパン」の面白さ。昔は「国辱映画」等と叫んで、真剣に憤慨したものですが、今では、ドン引きしつつも「こんなにイジってくれちゃって」と苦笑いしたり噴き出したりしている訳で、それこそ、私たちも些か国際化したということなのでしょう。それにしても、著者の採り上げた圧倒的な作品数、著者の守備範囲の広さには、驚かされました。早川雪洲の古典『チート』からアラン・レネやグリーナウェイまで、渡辺謙からフィリピン映画のニンジャ役者のケン・ワタナベまで、あるいはMr.BOOまで…。著者は「批評めいた視点からはできるだけ離れ、…闇鍋のようにぶちこんでみた」と書いていますが、これだけブチ込めば、自然と批評になってます(これ、賞賛です)。個人的には、ジャッキー・チェン主演(と言っても、出演は1カットのみ)の『ドラゴン特攻隊』が抜けていたのは惜しまれます。大戦中、中国軍の特殊部隊が日本軍の要塞に奇襲をかけますが、「日本軍の戦車だ!」と言われて、見れば、黄色いブルドーザーだったりします(KOMATSUと書いてある)。「ゼロ戦だ!」と言われて、見れば、セスナ機が出て来る『ロンゲスト・ブリッジ』というZ級カス映画もありました(盧溝橋事件を描いた作品ということになっています)。
  • 「エヴァンジェリカルズ/アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義」(マーク・R・アムスタッツ著、加藤万里子訳、太田出版)
    読了して、私自身、幾つかの点で原理主義者と福音主義信者とを混同していたと反省しました。また、米国の福音派の社会貢献の大きさにも感心しました。この本に言う「福音主義」とは、20世紀初頭のリベラル派と原理主義者との対立の結果、その両方に組しない穏健な人々により形成された勢力なのです。「20世紀末にメインライン教派(ルター派、長老派、メソジスト、バプテスト)が会員と影響力を急激に失ったのは、彼らの関心が神のことばを説くことよりも、注目を浴びる課題についてうけのよい立場を示すことにある、と見なされたからにほかならない」。しかし、当の福音派も、政治、経済、環境、軍事、人権などについて発言と関与を重ねていく中で、多様化し影響力が低下しているとの由。歴史は繰り返すのです。日本では正当に評価されていないR・ニーバー、トクヴィル、ベラー、ミード等が著者の論拠になっています。「訳者あとがき」で、シビル・レリジョン(公共宗教、市民宗教)関連で、私の恩師、森孝一教授の分析も引用されています。
  • 「マーカイム・壜の小鬼/他五篇」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン著、高松雄・高松禎子訳、岩波文庫)
    やはり、古典は読むべきですね。怪談からピカレスクロマンまで、ヴァラエティに富んだ短編の数々に発見があります。怪奇ファンとしては、あのヘンリー・ジェイムスも絶賛したという「ねじれ首のジャネット」を筆頭に挙げねばなりません。寒村の教会に赴任した、スコットランド長老教会の牧師が体験した恐怖。悪霊と対峙する時には、絶対に目を背けてはなりませんね。著者は敬虔なキリスト信者ですが、自らの出自である長老教会の偏狭な信仰には距離を置いていたようです。「壜の小鬼」は、所有者の欲望を叶えるが、持ち続けていれば、一緒に地獄に連れて行かれるという代物。しかも、自分が購入した金額よりも安く誰かに転売しなければならないという規則を伴います。文句なしに楽しめる展開です。「水車屋のウィル」と「マーカイム」には、死神(神御自身とも思われる)との対話が用意されていますが、2作は子どものような素直さと天邪鬼の見事な対比でした。ジャンル分け不能の「天の摂理とギター」は、夫婦者の旅芸人の物語ですが、この力強さ、逞しさ、大らかさや優しさが、果たして私たちにあるでしょうか。もっと楽天的に、自由に世の中を渡って参りたいものです。
  • 「丹生都比売(におつひめ)/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    まるで童話か絵本のような語りで綴られる「夏の朝」は、物語性ということについて深く考えさせられます。神や仏の如くして物語るものもあれば、作中人物の一人に憑依して(作中人物の口を借りて)証しするものもあります。まあ、後者も依代を立てるのですから、やはり神がかりではある訳です。「依童(よりわら)」という語があるように、子どもに語らせるのが、読者が入り易い仕立てです。しかし、敢えて語り手を意識させるという意味で、この作品は非常に異質なのです。さて、20年ぶりに読んだ表題作。私もいっぱしに人の親になって、命の切なさや哀しさについて、思いを至らすようになったようです。「…ああ、露よ。おまえも、その身を露と固めてこの世に出でくるまでは、ずいぶんと寄る辺ない切ない思いで、漂っていたことであろうなあ…」「…醜い欲も、たぎるような感情も、やがては哀しくなって、土が水銀に精錬されるように、このような美しい珠となるのだろうか…」。ラストを飾る「ハクガン異聞」、霧の出た森の小径で迷ってしまった結果、思いも寄らぬ風景や生き物に遭遇した経験です。そうそう、私たちは、学生時代、CAMELの「SNOW GOOSE」のファンでしたよね。
  • 「プリニウス」第2巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    古代ローマ物のマンガって楽しいな。第13話「インスラ」の冒頭のカット、豚の首切り、それこそ、フェリクスが家族のために焼いている肉だったのですね。2回目に捲ってみて漸く繋がりました。この豚の首のカットのリアリズムに比べると、第12話「プラウティナ」の終わり近く、ネロ皇帝の辻斬りの場面には、かなり粗雑な絵があります。巻末の合作者対談を読むと、2人共に殆どアシを使っていないらしいし、時々、手の回らないこともあるのだろうなと推察します。
  • 「たんぽぽ娘」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編、河出文庫)
    はい、やっと文庫化、晴れて購入、楽しく読了。表題作は、これぞヤング、やはり、タイムトラベル・ロマンティックSFの金字塔です。私としては「荒寥の地より」に最も感銘を受けました。ノスタルジーの中に寂寥感が漂っています。過去の愛しい思い出の中に、未来から来た男が入っているのです。例えて言えば、デジャヴのような、何とも知れぬ朦朧感が堪りません。そう言えば、表題作の中にも、タイムパラドックスを軽く一蹴する言葉がありました。「時の書物はすでに書かれているんですって。巨視的に見れば、将来起こるできごとは、もうすでに起こっているのだと父はいうの。もし未来人が過去の事象にかかわりあったら、その人は過去の一部になってしまう―つまり、もともとその人は過去の一部として存在していたから―この場合には、だから、矛盾は起こりえないということになるわね」。まさか、カルヴァンの予定説かよ。「神風」と「ジャンヌの月」は、共に「ボーイ・ミーツ・ガール」物ですが、ハッピーエンドの分、後者が嬉しいですね。「ジャンヌ」には、こんな一節もありました。「戦時法は、あらゆる法と同様に、状況や効果を鑑みて、施政者の意のままにいかようにも適用されるということを忘れていた」。主人公は慄然とします。私たちは間に合うでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 10:21 | 牧師の書斎から