2015年03月29日

キリスト教こんにゃく問答]Y「永遠の命」

1.祝福と呪詛

「これで最期ですが、私にとっては生の始まりなのです/This is the end,for me the beginning of life」(E・ベートゲ他著、高橋祐次郎訳『ボンヘッファーの生涯より』)。英文学者の中村妙子は「これは終わりですが、私にとっては新しい生命の始まりです」と、少し意訳しています。ナチスに抵抗した牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーの遺言として伝えられる言葉です。

バイエルンのフロッセンビュルク強制収容所で処刑される直前、彼はこの言葉を伝言として、共に抑留されていた英国人将校に託したのです。そして将校は戦後、ボンヘッファーの十数年来の友人であった、ロンドンのジョージ・ベル主教に届けたのでした。私は「永遠の命」という語を耳にする度に、この簡潔でありながら力強い、ボンヘッファーのメッセージを思い出すのです。

青年時代の私は「ジ・エンド」と聞いても、退廃的で虚無的なジム・モリスン(ザ・ドアーズ)の歌声(1967年)しか思い浮かばなかったのです。御存知ない方のために書きますと、「この絶望の地では/余りの痛々しさに恋愛も失われて/子どもたちは皆、気が狂っていく/夏の雨乞いでもするかのように」というような、呪詛じみた歌詞が延々と続きます。そうです。あの歌は、まさしく「呪い歌」だったのです。実際、ジム・モリソンは薬物の過剰摂取のため27歳の若さで死亡しています。

同じ「This is the end」という言葉で始まりながら、両者の行き先は何と違っていることでしょうか。私自身は、ボンヘッファーの言葉に出会った時、薄闇の世界に朝の陽光が射し込んだように感じました。そして、「終わり」を何として受け取るか、そこに呪いか祝福かの分岐点があると悟ったのです。

2.現世と来世

ボンヘッファーの遺言には、勿論、聖書的な根拠があります。

「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」(「テモテへの手紙T」4章7〜8節)。

「この世での命」と「来るべき世での命」とが対比されています。これは、前の「協会訳」では「今のいのち」と「後の世のいのち」、「新改訳」では「今のいのち」と「未来のいのち」と訳されています。そして、「後の世のいのち」こそが、本来の命なのだと言われているのです。

これが新約聖書に言われる「永遠の命」なのです。「神の国を継ぐ」と言われるのも、このことに他なりません。言うまでもありませんが、聖書に言う「永遠の命」とは「不老不死」でも「アンチエイジング/抗老化医学」でもありません。

そう言えば、漢方の「長寿」と「長命」も、全く意味が異なると言われています。「長命」は単に「生き長らえている」こと、「長寿」は自律的に生活して社会参加も可能なことだそうです。いえ、その程度の違いではなく、聖書の「永遠の命」は「彼岸」の命だったのです。

「後の世のいのち」が本物の命であるとするならば、「今のいのち」には、大した価値はないのでしょうか。

イエスさまの助言を仰ごうと訪ねて来た「金持ちの男」は言いました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(「マルコによる福音書」10章17節)。ここでの問答から、当時のユダヤ教では、律法の掟を守ることが「永遠の命」を受け継ぐための条件とされていたことが伺われます。つまり、この世は試験会場、今の人生は修行、訓練期間みたいなものと考えられていたのです。ですから、せいぜい奮闘努力して、神さまのお眼鏡に叶うようにしなくてはなりません。

しかし、福音書を読んでみると、イエスさまが「救い」を言い渡されるのは、真面目に律法を守ろうとしている人たちではなく、どちらかと言えば、徴税人や娼婦、貧乏人や物乞い、病人や障碍者、子どもや外国人など、律法を守れない人たち、律法を守るどころではない人たちなのでした。何しろ、一緒に十字架に磔にされた犯罪人にまで「救い」を約束されているくらいです。どうやら、イエスさまは、今の世で悩み苦しんでいる人たちこそが一番に救われねばならないと考えておられたようです。

確かに「永遠の命」、あるいは「神の国」には、この世に対するアンチテーゼという側面があるようです。価値の転倒、立場の逆転、逆説…延いては、体制批判、世直し、社会変革、革命運動にまで通じる、終末論的なマグマが潜んでいるようです。これは、キリスト教に限らず、イスラム教や仏教、一部の教派神道まで、どんな宗教にも見られる力学です。宗教社会学としては、そういうことですが、私たちが信仰者として知りたいのは、神さまの御心の在り処です。

3.永遠と瞬間

問題は、この世で私たちが苦しんだり悩んだりすることに、何の意味があるのかということです。来世のための修行なのでしょうか。しかし、それならば、戒めを守って救いに与る、古代ユダヤ教の律法主義と何ら変わりがありません。

律法の実践を救いの条件とすると、人間が自らを「義とする」ことになります。所謂「自己義認」です。自らが神に成り代わるのです。苦しみ悩みを救いの条件とするのも、結局それの裏返しでしかありません。

大切なのは、苦しみ悩みの中にあっても尚、神さまを信じるということではないでしょうか。自分が「苦難しているが故に救われる」のではなく「苦難の中から救い出して下さる」主を信じるのです。それが神さまの憐れみ、神さまの愛です。イエス・キリストの十字架はその具現化です。私たちには、これを信じるしかないのです。

実際、私たちには、苦難の意味は分かりません。神の創造の摂理が私たちの理解を超え、想像を絶しているのと同じです。あるいは、キリストの十字架の重さを、誰も知っているとは言えないのと同じです。誰のことであっても、安易に苦難の意味を説明したりする程、愚昧なことはありません。まさしく「これは何者か。/知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(「ヨブ記」38章2節)なのです。

しかし、苦難にも必ず終わりがあります。それが、人生を祝福として受け取る秘訣です。誕生と同じく臨終をも祝福として感謝することが出来るのは、終わりを「新しい生命の始まり」と信じるからです。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。/ある者は永遠の生命に入り…/目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(「ダニエル書」12章2〜3節)。

だからと言って、死を美化し、生を軽んじるのではありません。現世を否定して、来世に望みを掛けるのとも違います。その反対に、死から目を背け続ける生き方、刹那的享楽主義の追求とも違います。それは、命のバランスが崩れてしまっているのです。

そうではなく、恐らく、神さまにとっては、生も死も等価なのです。何ら変わるところが無いはずです。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。/夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない」(詩編139編12節)。その神さまに向かって、私たちが全身全霊で呼び掛ける、祈るところにこそ「永遠の命」への扉の鍵があると、私は信じているのです。


【会報「行人坂」No.250 2015年3月発行より】

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