2015年03月29日

呪いの連鎖を断て!

昨年、ボカロ曲『塵塵呪詛/チリチリジュソ』(作詞作曲:きくお)が、一部の好事家の間で評判を呼びました。バリ島のガムラン音楽を思わせる旋律で、呪文のような謎めいた歌詞が印象的でした。「僕らの終わりは世界の終わり/世界の終わりはみんなの終わり/きみの始まりは誰かの代わり/誰かの終わりが僕らの代わり…」。

「ボカロ」とは「ボーカロイド/VOCALOID」、ヤマハが開発した音声合成装置ですから人間の声ではありません。「初音ミク」という名前で知られる、ツインテール(二つ結ひ髪)の美少女キャラが有名ですね。『塵塵呪詛』にも、この「初音ミク」をフューチャーしたバージョンがあります。

意味不明の歌詞ですが、要するに、チェーンメール系の呪い歌です。古風な言い方をすれば「不幸の手紙」ということです。命のないボーカロイドが、命を実感することの少ない若者たちを、再び呪いの世界へと引き入れようとしているかように、私には思われました。私の取り越し苦労なら良いのですが…。いや、むしろ、このどうしようもない世界に呪縛されて生きる現代人の閉塞感、厭世的な気分を歌っているのでしょうか。

私たちの国には、未だ民主主義もあるし、憲法で保障された人権もあるし、選挙権もあります。平和をつくるために働く人たち、社会貢献をしようと意欲を持った人たちも大勢いるはずです。世の中をより良くして行くための手立ては未だ残されているはずなのですが、なぜか、そういう方向には行かず、色々なことが空回りした挙句に、悪循環に陥っているように思われてなりません。

聖書には「呪い」という語が数多く出て来ます。「祝福」と同じくらい「呪い」も出て来るのです。神さまとの関係の仕方、向き合い方の如何によって、人間は祝福の内に入れられたり、呪いの内に囚われたりするのです。「わたしは命と死、及び祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」(協会訳「申命記」三〇章一九節)と言われているように、神に従うべきかどうかを、人は自ら決定し、命と祝福を受け取るように、神さまから促されているのです。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と、村上龍は『希望の国のエクソダス』(二〇〇〇年)の登場人物に語らせていました。あれから既に十五年が経過し、益々、私たちの社会は希望を見出せなくなっているようです。何度も私たちは「ボタンの掛け違え」を繰り返しているのではないでしょうか。

戦後しばらく「逆コース」という語が使われていました。戦後の民主主義、非軍事の歩みに逆行する政策を、為政者が打ち出す度に「逆コース」と批判されたものです。最近、それどころか、この国が高速道路を「逆走」をしているように、私は感じます。政治経済だけではなく、全てにおいて、そのように思われます。私の錯覚であって欲しいものです。

【会報「行人坂」No.250 2015年3月発行より】

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