2015年06月26日

一点一画 one jot or one title(続き)その24

  • 「回顧七十年」(斎藤隆夫著、中公文庫)
    先日、父の二十五回忌の法事のため、久しぶりに但馬の実家に帰省。その際、仏間に飾られた斎藤隆夫の扁額を改めて確認して来ました。「雲氣靜/雲高くして気静か」に「天城隆」と署名されていました。平凡と言ってしまえばそれまで。むしろ、飾らぬ但馬人気質が出ていて安心しました。叔父によれば、拙宅に逗留した際に書かれたものらしいのですが、回顧録を読みながら、いつ頃に書かれたのか気になりました。併録されている演説2篇、二・二六事件直後の所謂「粛軍演説」、日中戦争処理についての質問演説は、今読んでも胸がすく思いです。保守政治家の立場から正面切って、ここまで厳しく内閣と軍部の責任を追及した人は誰もいません。斎藤は全く平和主義者、理想主義者などではなく、徹底した現実主義者、しかも熱烈な天皇崇拝者ですが、しかし、立憲政治を信奉し、それに殉ずる気概を持っていたのです。何の展望もないままに軍部が始めた日中戦争のために、どれだけの血税が浪費されて、どれだけ国民の生命財産が失われているか訴える件は、涙無くして読めません。昨今の国立競技場建設問題や「集団的自衛権」法案を見る限り、日本の官僚や代議士たちの行き当たりばったりの体質は何も変わっていません。
  • 「ノヴァーリスの引用/滝」(奥泉光著、創元推理文庫)
    著者の作品を読むのは『石の来歴』以来でした。ノヴァーリスが好きで買ってみたのですが、読み終えてみると、圧倒的に『滝』が面白かった。修験道系の宗教教団の「若者組」の少年たちが夏期修練の総仕上げとして回峰行に挑みますが、それを監督する「青年組」の男の屈折した愛情が原因となって壊滅していくのです。少年たちの肉体と精神が崩壊していく様は「少年十字軍」を思い出しました。誓約(うけい)の際の神籤が先輩たちによって恣意的に操作される慣例があったり、女人禁制の故に男色が黙認されていたり、実に興味深い。『ノヴァーリス』には、泥酔した「私」が1979年の春にタイムスリップする展開があります。ここが、十数年前に自死したとされる石塚の側からの、仲間たちへの異議申し立てに成っています。これまでの展開を全て引っ繰り返して、推理ごっこに興じる生者たちこそが、殺人の真犯人であったと主張します。黒澤の『羅生門』で、巫女に憑依して語る死せる夫の霊と同じです。
  • 「神話の力」(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    キャンベルによる神話や宗教儀礼の引用には、アメリカ先住民、古代インド、マヤやアステカの神話、それに仏教説話なども頻出するのですが、それに加えて、聖書やカトリック信仰(彼自身の出発点)も重視されています。少し彼のカトリック贔屓は鼻に付くかも知れません。プロテスタントはルターが採り上げられている以外、全く問題外で、東方教会については手付かずのようです。しかしながら、神話学の立場から読み直しているせいか、彼の聖書解釈は、「聖書の非神話化」以後の私たちから見ても的確です。対話者のモイヤーズが南部バプテストの神学校出身者だという点も重要で、旧来のキリスト教批判も含めて、全米の一般的読者が内容を受容するために、大きな役割を果たしていると思います。但し、日本の読者がこれを鵜呑みにして、自分たちの「宗教的寛容の風土」を誇る等というのは勘違いも甚だしい。日本宗教の中の権力構造については、私たち自身が批判していく課題として残されているのです。
  • 「ヒストリエ」第9巻(岩明均作、講談社)
    旧作『寄生獣』が実写映画化されてヒットしたり、テレビアニメ化されたりして何かと話題になっても、どこ吹く風と、相変わらず地味な歴史物をコツコツ描き続けている作者は凄い。買った日に2回読みました。「カイロネイアの戦い」開戦という所で終わってしまう訳で、戦闘も殺戮もない巻なのですが、それでも面白いのです。アテネのフォーキンとのやり取り、アンティパトロスとの腹の探り合いを、エウメネスがしているだけで嬉しいのです。昔懐かしい人も再登場していますし、新キャラのフォイニクスも頼もしい「相棒」に成りそうだし…。
  • 「妻を帽子とまちがえた男」(オリヴァー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    表題は比喩や寓意ではなく、その言葉通りに妻の頭を摑むや持ち上げて被ろうとする患者が登場するのです。彼は、一見しただけでは対象物が何であるか認識する直観力と総合力を失ってしまったのです。また、別の男性は19歳以降の記憶を失ってしまって、今現在の記憶も次の瞬間には、砂に書いた文字が波に浚われるように消えて行きます。ある女性は、身体の固有感覚を失ってしまい、視覚によって意識集中させなければ、自然に動けなくなってしまいます。神経と精神・身体の不思議を思わないではいられません。「われわれは『物語』をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう」。「生物学的あるいは生理学的には、人間は誰しもたいして変わらない。しかし物語としてとらえると、一人一人は文字どおりユニークなのである」。「世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、『物語的な』あるいは『象徴的な』力なのである。具体的な現実が表現されるからである」。脳神経科医の著者にして、この言葉、唸らせます。
posted by 行人坂教会 at 10:14 | 牧師の書斎から