2015年07月06日

平和の挨拶【ヨハネ14:25〜31】

聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(14:27)

1.《仁義を切る》 映画『男はつらいよ』第1作には、寅さんがテキ屋仲間に仁義を切る場面があります。また、東映任侠映画の『昭和残侠伝』や『緋牡丹博徒』のシリーズでは、今なら些か冗長と思われるような渡世人の仁義切りが、毎回のように丁寧に描かれています。本来は「辞宜」と言って「挨拶をすること」「礼をすること」だったのです。香具師や侠客だけではなく、炭鉱や鉱山の労働者、旅回りの職人の世界にも、仁義を切る習慣があったと言われています。

2.《安否を問う》 仁義切りの姿勢では、右の手の平を相手に見せるのが基本です。手の内を見せて、武器も敵意もないことを知らせるのです。西洋人や中国人の握手にも同じ意味があります。日本のサラリーマン社会に残る名刺交換の儀式も、その流れを汲んでいます。「平和の挨拶」はキリスト教会の専売特許ではありません。ユダヤ教徒の「平和の挨拶/シャローム」は、会衆がお互いの安否を問う習慣でした。それは「接吻」によって行なわれました。欧米では、誰もが日常的に「頬っぺにチュッ」を行なっていますが、私たちは苦手な分野です。

3.《本当の平安》 古代ユダヤ教では、相手の身分や立場、相手との関係によって接吻の部位が変わりましたが、キリスト教会は、階級や人種の違いを乗り越えようと努力して来ました。「平和の挨拶」は「聖餐」の前に行なわれました。和解をした上で初めて「聖餐」に臨むことが出来るのです。シリアやアルメニアの教会では 接吻でなく握手を交わし、コプト教会では礼を交し合います。自分らしい在り方で良いのです。南インド合同教会は、20世紀に諸教派が20年以上の対話を重ねて合同した教会ですから、「平和の挨拶」の時間を最も大切にしています。私たちも、魂を奪われている人の手を包んで、祝福を祈りたいものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:37 | 毎週の講壇から