2015年07月13日

てんたさん【ヤコブ1:12〜18】

聖句「誘惑に遭う時、誰も、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は…人を誘惑したりなさらないからです。」(1:13)

1.《言霊幸はふ國》 「てんたさん」とは誰かと、数人の人から尋ねられました。大和言葉の力は、現代に生きる私たちの五感も刺激するようです。山上憶良が「好去好来の歌」に「言霊の幸はふ國」と詠んだ通りです。私たちは、言葉に霊的な力(タマ)が宿り、その働きによって幸福がもたらされていると信じているのです。「てんたさん」は、『どちりな・きりしたん』(1600年)の「主の祈り」に「我らをてんたさんに放し給ふことなかれ」の「tentaçâo」のことです。

2.《試練か誘惑か》 何しろ、当時「悪魔」も「天狗」と訳していたくらいですから、「テンタサン」にも適切な訳語が見付からなかったのでしょう。ギリシア語の「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の両方の意味があります。「神の与えられた試練」か「悪魔の誘惑」か明瞭ではないのです。この両義性が翻訳を難しくしたのかも知れません。イエスさまの「荒れ野の誘惑」でも、主を悪魔の誘惑へと導いているのは「御霊、聖霊」です。それは「共観福音書」が主張しているところです。果たして、神さまが私たちを悪魔の誘惑へ連れ行くのでしょうか。

3.《立ち尽くす愛》 「試練」は「耐え忍ぶ、持ち堪える、逃げ出さずに留まる」べきものとして教えられています。先輩の牧師からは、女性やお金の「誘惑」に遭う時には「三十六計逃げるが勝ち」と教えられました。試練とは外側から襲い掛かる苦難、誘惑は内側から忍び寄って来て、欲望を煽り、唆すものです。また、私たちには試練が誘惑の働く機会としてしまう場合があります。苦難に際して、責任転嫁したり、神と人とを呪い怨むようになるのです。私たちは弱いので、苦難に耐え切れるものではありません。しかし、そんな時こそ、立ち尽くしましょう。愛は、信仰は立ち尽くすのです。イエスさまの十字架のように。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から