2015年08月03日

破れを担って立つ【詩編106:6〜23】

聖句「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(106:23)

1.《責任回避》 新国立競技場の問題では、既に59億円もの公費を損失しています。このプロジェクトには責任者が全く存在しないかのように、引責辞任を表明する人はいません。本来「長」と名の付く役職は、不祥事の責任を取るためにあるはずですが、お互いに「自分は迷惑を掛けられた被害者だ」と主張しています。原因究明も検証も為されないままでは、今後も同じ過失が繰り返されるでしょう。

2.《変わり身》 政治学者の丸山眞男は、東京裁判で、戦時中の軍国主義者や政治指導者たちが異口同音に責任逃れをするのを見て「日本ファシズムの矮小性」「膨大なる無責任の体系」と名付けました。宗教界も積極的に戦争に協力したのですが、占領軍が不問にしたために、自らの組織としての責任を明確にすることがありませんでした。それどころか、キリスト教団は、自らを不幸な被害者のように捉えました。また時も時、東久邇内閣の令旨やマッカーサーの優遇政策に乗って、戦後の「キリスト教ブーム」を迎えてしまいました。結果として、戦時下における自らの責任を考えようとする機運が生まれなかったのです。

3.《破れ口に》 「詩編」106編は「贖罪の詩編」です。出エジプトの歴史の中で先祖たちが繰り返した過ちを唱えながら、自らの罪を御前に告白し、赦しを求める儀式です。信仰者の姿勢は「破れを担って御前に立つ」ことです。直訳は「破れ口で主の御前に立つ」です。「破れ口/ペレツ」とは、アッシリアの破城槌によって破壊された城門や城壁の破損箇所です。ここから敵兵が雪崩れ込んで来るのです。「破れ口」が出来たら終わりなのです。しかし、自らの無力を知りつつ、モーセは「この破れ口に身命を賭して立った」のです。神の「驚くべき御業」を信じて「破れ口に立つ」ことこそが、責任ある大人の生き方です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から