2015年09月27日

生きられる時間

1.ジャネの法則

誰もが実感する疑念があります。年齢を重ねるにつれて、段々と時間の過ぎるのが速くなっているかのように感じてしまうのです。

要するに「人が感じる時間の長さは、自らの年齢に反比例する」ということです。これを「ジャネの法則」と言います。ピエール・ジャネ(Pierre Janet,1859−1947)というフランスの精神病理学者が「記憶の進化と時間観念」(L’Évolution de la Mémoire et la Notion du Temps)という論文の中で紹介しているそうです。それは、彼の父、哲学者のポール・ジャネ(Paul Janet,1823−99)が定義したことらしいのです。勿論、改めて定義したり理論化したりして頂かずとも、私たちは皆、実感として知っていることです。

ルキノ・ヴィスコンティ監督の1971年の映画、『ベニスに死す』(Morte a Venezia)だったと思いますが、確か、こんな台詞がありました。「人生は砂時計のようなものだ。砂が落ち始めたばかりの頃は、ほんの少量なので気にも留めない。しかし、ふと気付くと、残された砂は僅か、落ちるスピードは急激になっている」。トーマス・マンの原作には、そんな言葉はありませんでした。恐らく、脚本のオリジナルでしょう。

ヴィスコンティの作品には、そんな怖ろしい台詞が時折、出て来ます。1974年の『家族の肖像』(Gruppo di Famiglia in un Interno)では、老教授がこんな話をします。「ある作家が自宅の2階に引っ越して来た間借り人のことを書いている。その間借り人が動き廻る音、歩いている足音に、作家は耳を傾けていた。ある日突然、間借り人は姿を消してしまったようだった。その後、長い間、作家は彼の足音を聞かなかった。ところが、彼は戻って来る。そして彼は、以前よりも部屋に居付くようになり、彼の存在は確かなものと成って行った。彼は死そのものなのだ。人生の終わりに近づいたという自覚を、死がそれと悟られぬものに姿を変えて、作家に知らせたのだ」。

2.珈琲スプーン

夏休みに日光と那須に泊りに行った時、ホテルの売店で、二男がガラス壜に白い砂の入った砂時計を発見、なぜか欲しがりますので、買って帰りました。「3分間」と表示がありました。彼に言わせると、カップラーメンを作る時に便利だとのことでした。ところが、キッチンに置きっ放しにしていたためか、8月末には、湿気で砂が固まってしまい、全く砂時計の用を足さなくなってしまったのです。

人生に重ねるなら、見る見る残量の乏しくなる砂時計も怖ろしい限りですが、湿気て砂の落ちなくなった砂時計も、膠着状態ですから、幸せな人生とは思われません。その固まった砂を見ながら、T・S・エリオットの初期の詩「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」(The Love Song of J.Alfred Prufrock,1917年)の一節を私は思い出しました。「夜毎、朝毎、昼毎に/私は自分の人生を珈琲スプーンで量り尽くした」(Evenings,mornings,afternoons,/I have measured out my life with coffee spoons.)。

毎日、判で押したように日課を繰り返す生活があります。時折りイベントは入りますが、通勤通学をはじめ、同じような日々を繰り返しているだけという印象は拭えません。産業社会は、私たちに、そういう生活を強いて来ました。腕時計、メモ帳、カレンダー、会社のタイムカード、学校の時間割、日程表付きの企画書、公共交通機関の運行表…。最近のモバイルやセルラーも、産業社会の量りがもたらしたものです。学校の成績、偏差値、営業成績、収入と納税額、視力聴力、血糖値、血圧、心拍数…。私たちも日々「スプーンで量り尽くされて」いるのかも知れません。

私が珈琲や紅茶に砂糖を使わなくなって十年以上になります。スプーンで砂糖を量らなくなると、以前は、何かにつけ思い出すことも多く、口ずさんでいたエリオットの詩を忘れてしまっていました。ところが、今回、子どもの砂時計が固まった時に、どうしたものか、急に思い出されたのです。

私たちの人生は、決して量れないのです。少なくとも(自身を含めて)人には決して量れないのです。私たちの人生の長さと重さを量って、お決めになるのは神さまなのですから。

3.尺取虫の人生

聖書には、神さまの「物差し」「測り竿」(measuring rod)、「測り縄」(measuring line)が出て来ます。神さまが重さを量る「天秤」(balances)も出て来ます。これは、神さまが正確な基準であることを言い表わしているのです。

私たちの感覚は曖昧で移ろい易いものです。年齢を重ねて歳月の速さを感じるのも錯覚ならば、日課を繰り返して自らを量っているかに思うのも虚構に過ぎません。どのように感じるにせよ、「昨日、今日、明日」という時間の歩みを誠実に生きるところに、健全な信仰が与えられて行きます。私たちが日曜日に礼拝に集まり、神に向かって賛美と祈りを奉げることは、時計を標準時に合わせるような行為なのです。

これが無いと、私たちは勝手に速く進んでしまったり、ドンドン遅れてしまったりするのです。もしかしたら、螺旋(ねじ)を巻き忘れているかも知れません。電池が切れているかも知れません。いつの間にか、大きくバランスを失っているかも知れません。そんなズレに気付かないままに、生きている人が多いのではありませんか。それは、自分の感覚を基準にしているところから生じるのです。何をもってして自らを測る(量る)のか、それこそが大切なテーマなのです。「あなたがたのうち誰が、思い悩んだからと言って、寿命を僅か(1キュビト/約45センチ)でも延ばすことが出来ようか」(マタイによる福音書6章27節)。神さまに向き合わぬままの延命は所詮、悪あがき、延ばせても1尺余りなのです。

牧師 朝日研一朗

【2015年10月の月報より】

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