2015年09月28日

手を伸ばしなさい【マタイ 12:9〜14】

聖句「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。」(12:9,10)

1.《人羨し》 世の中には、両手両足の萎えた人も、もっと重い障碍を負っている人もいるのだから、「片手が萎えて」いるだけだから大した事ではないと思われますが、本人にとっては重い現実です。歌人の梅田達雄は「街行けば逢ふ人羨し人羨し手萎え足萎えわが妻は臥す」と歌いました。「人羨(とも)し」、これこそ、病人や障碍者を抱える家族の嘘偽らざる心境でしょう。

2.《ナエシ》 福音書には、もっと重い病気や障碍を抱えている人が次から次へと登場します。「中風の人」「長血の女」「会堂長ヤイロの娘」「癲癇の子」「重い皮膚病を患っている人」…。「病草紙」の如くですが、「病草紙」と違うのは、ここにイエスさまが居られるということです。但し、「片手の萎えた人」の場合は、ファリサイ派との安息日論争に契機に成るだけで、本人の必死の訴えもありません。「萎える」は「植物が萎れる」から手足の麻痺を言うように成りました。岡っ引きの十手も、敵を打ち据えて無力化するので「ナエシ」と言います。

3.《想像力》 一説によると、この「手萎え」は「筋萎縮性側索硬化症/ALS」だと言います。最後には、呼吸する筋力も奪われて死に至る難病です。私たちは見た目だけで軽症と思い込んでいます。会堂の人々も、ファリサイ派も、当人さえも知らなかったのです。一見して他人を羨んだり妬んだりしますが、私たちには、相手の病気や障碍の重さも、人生や生活の実際も何も分かってはいなかったのです。「何も安息日に禁止されている治療行為をせずとも良い」と、皆は考えたのです。しかし、これは愛の欠如です。愛の欠如は想像力の欠如から来ます。イエスさまと違って、私たちには、他人の悩み苦しみは分かりません。しかし、その人の喜び悲しみに思いを致し、想像することは大切です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:45 | 毎週の講壇から