2015年10月25日

教会暦を身につけよう

1.三つの出来事

キリスト者の信仰にとって、大きな出来事は3つあります。言うまでもありません。イエス・キリストの「降誕」と「復活」、そして「聖霊降臨」の出来事です。その3つは、キリスト教の「教会暦/〔羅〕Annus ecclesiasticus/〔英〕Ecclesiastical calendar」の中で、それぞれ三大祝日に該当します。即ち「クリスマス/降誕日」「イースター/復活日」「ペンテコステ/聖霊降臨日」です。

12月25日の「クリスマス」は誰でも御存知でしょう。「春分」に当たる「イースター」は(西方教会では)3月22日から4月25日までの35日の間を移動する「移動祭日」です。これも最近では、ディズニーランドの「ハッピーイースター」その他、西欧の風俗が移入される中で認知度が高まりつつあります。

その点、教会に通う信徒だけが守っているのが「ペンテコステ」です。これもまた「イースター」の50日後と決まっているため(「ペンテコステ」とは「50日目」という意味です)、5月10日から6月13日の間を、必然的に移動します。天に召されたキリストが聖霊と成って、弟子たちの上に降り注ぎ、力強く証を始めた日とされています。それで「聖霊降臨日」と言います。米国では、この日に洗礼を受ける者たちが「白い衣」を着ていたことから「ホイットサンデー/Whitsunday」と呼ばれています。

教会生活をする者は誰でも、最低限この3つの祝日を守っています。イエスさまの御降誕に与るだけではなく、その十字架の死と復活の命にも与りたいし、聖霊の導きと力にも与りたいからです。

2.三位一体の力

キリスト教では「父と子と聖霊の御名によって」と、牧師の「祝祷/Benediction」が唱えられます。礼拝の最初と最後を飾る「頌栄/Doxologia」も「三位一体の神に栄光を帰し、その御名を頌め讃える」歌です(「ドクサ」とは、ギリシア語の「栄光」です)。「主の祈り」の結びに「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」の「御国・御力・御栄え」と言われているのも、それに対応しています。

それと同じように、実は、私たちの暮らしの1年間もまた、「教会暦」では3つに分かれているのです。それが「クリスマス/降誕節」「イースター/復活節」「ペンテコステ/聖霊降臨節」なのです。クリスマスと言っても、その日1日を言うのではなく、その祝日を前後する期間を言います。よく知られているのは、クリスマスの4週前の日曜日に始まる「アドベント/待降節」です。

しかし、近年では「アドベント」を含めて9回の日曜日を「降誕前節」として守るように成りました。12月25日の「降誕日」から本来の「降誕節」が始まります。クリスマスを中心に据えた前後の期間を一括して、これら全てを「降誕」をテーマに生活する期間(秋から冬)と定めるのです。同じように、イースターを中心にして、その前後を「復活前節」「復活節」の期間(冬から春)として守るのです。「レント/受難節」を復活の準備期間、「復活前節」として捉え直すのです。すると、イエスさまの受難と十字架の死の出来事が、復活の命を招来する秘儀であることが自然に受け止められるのです。そして最後に。ペンテコステから始まる「聖霊降臨節」(春から秋)です。

このように1年の「教会暦」を3つに分け、3つの救済の出来事として、暮らしの中で味わうようにしては如何でしょうか。

神秘主義の世界では、「三位一体」の起源が太陽の現われに関係があるとされてます。「光」の象徴である球体は、日の出、真昼、日没の3つの段階を持っていて、万物が成長、成熟、崩壊する様子を体現します。しかも、太陽は夜毎、死にますが、朝と共に蘇えるのです。この永続する運動を、自身のバイオリズム(生体運動)の中にも組み込んで行くことが大切なのです。人間が太陽と共に生活して来たのは、それなりの理由があるのです。

そして、太陽は「日周運動」を行なっているだけではなく、「年周運動」をも行なっています。占星術の世界では、太陽は天の十二の家(黄道十二宮)に30日ずつ滞在しながら、次々と通過して行き、72年に1度の割合で退行するとされています。日本基督教団の採用している聖書日課「日毎の糧」が「4年サイクル」に成っていることは、太陽の「年周運動」を考えた上で作られているのです。勿論「72」や「12」は「4」の倍数であるのみならず、「3」の倍数でもあります。

3.継続が力なり

キリスト教の中でも、プロテスタント教会には、特別な「修行」「修道」は存在しません。その意味で、プロテンタントは「世俗化したキリスト教」と言えるでしょう。ローマカトリックが神秘めかして保持して来た聖性を、何もかも取っ払ってしまったからです。聖人もいなければ、聖遺物も聖水も聖餅もなく、聖地すらもありません。聖餐式に頂くのも食パンと葡萄ジュースに過ぎません。

但し、余りにも世俗化の度が過ぎたと言うべきでしょうか、洗礼を受けた信徒の中でも、礼拝を重んじず、聖書を読まず、奉仕に参与しない人が増えて来ました。大変に残念なことです。何より残念なのは、特別な修行などしなくても、ただ、教会に通うだけで自然に身に付くはずの信仰が無残に打ち捨てられているということです。

イエス・キリストの降誕も、受難も十字架も、復活の命も、聖霊降臨も三位一体も、教会暦の中で自然に養われるものなのです。特別な勉強をしなくても、ただ、真面目に礼拝生活を続けるだけで、自分のものにすることが出来るのです。

牧師 朝日研一朗

【2015年11月の月報より】

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