2015年10月25日

キリスト教こんにゃく問答]Z「死に至る病」

1.病は気から?

ベタニア村のマルタとマリアの姉妹が使者を遣わし、イエスさまに「兄弟ラザロが重い病気を患っている」と知らせました。ところが、イエスさまは「この病気は死で終わるものではない」と応えて、その地に尚、2日間も滞在し続けるのです。その後、イエスさまがベタニアに到着した時には、ラザロは既に死んでいて「墓に葬られて既に4日も経っていた」と書いてあります。その後、イエスさまはラザロを墓から呼び戻します。

余談になりますが、ラザロこそは「元祖ゾンビ」です。19世紀ロシアの幻想文学者、レオニード・アンドレーエフは、『ラザルス』という短編小説で、復活させられたラザロが辿る怖ろしい運命を描いています。これについては『半七捕物帳』の岡本綺堂による名訳(但し、英訳からの重訳)があります。

それはともかく、イエスさまの有名な台詞「この病気は死で終わるものではない」(「文語訳」では「この病は死に至らず」)から、19世紀デンマークの哲学者、セーレン・キェルケゴールは『死に至る病』という本を書きました。「この病は死に至らず」の主の宣言が、復活の希望であるのに対して、「死に至る病」とは絶望のことです。人間にとっては、絶望こそが本当の「死に至る病」だと言うのです。

何気なく、ラテン語訳「ウルガタ聖書」を読んでいたら、「この病は死に至らず」は「インフィルミタース・ハェク・ノン・エスト・アド・モルテム/infirmitas haec non est ad mortem」と書いてありました。「病」は「インフィルミタース/infirmitas/無気力、怠惰」という語が使われていて、通常の「モルブス/morbus/病気、病状」という語ではありませんでした。これでは、まさに「病は気から」という話に成ってしまいます。ビックリ仰天しました。

そこで、ギリシア語原典を確認すると、「アステネイア」という語が使われています。その語の第一義は「無力、弱さ」、「病気」は第二義だったのです。ここでも、一般的な「病気/ノソス」という語を使っていないのです。つまり、「ウルガタ」はギリシア語原典に忠実だったのです。

2.病は神罰か?

旧約聖書では「病」に「ホーリイ」というヘブル語が使われています。「ハーラー/弱くなる、病気になる、患う」という動詞から来た語です。即ち、「病」とは、神によって「弱められること」だったのです。旧約の世界では、良い事も悪い事も全て、唯一の神に由来すると考えられていました。健康や繁栄も「神からの賜物」であると受け止められましたが、その反面、病気に罹った場合も、その人と神との関係の中に、何か良からぬ問題があったと考えられたのです。所謂「神罰」です。

具体的に律法を破ったり、犯罪まで至らずとも、道徳的な罪を犯したり、そんな場合に、神に打たれて、その人は病気に罹ると考えられていたのです。その典型とされたのが「らい病」です。

念のため申し上げますが、現在の「ハンセン病」と同一視するべきではありません。「新共同訳」では、1996年の「らい予防法」廃止に伴い、「らい病」は、差別用語として一切の使用を取り止め、以後「重い皮膚病」と訳しています(訳語変更は1997年版から)。この曖昧な語が「ハンセン病」と混同されて、患者が被った差別や迫害の歴史に配慮してのことです。

「らい病」は「ツァーラース」「メツォーラー」と言いますが、いずれも「打つ/ツァーラー」から来ていて、「打たれた者」を意味します。「神に打たれた病気」だったのです。「民数記」12章では、モーセの独裁指導体制に逆らったミリアムが罹患します。更に「ヨブ記」において、義人ヨブを絶望の淵に追い詰めるのも、「あなたが罪を犯したからこそ、災難と病気が襲って来たのではないか」という、友人たちの問いかけでした。

ともかく、神との霊的関係が破れたために病気になったと考えられたのですから、癒されるための第一条件は「悔い改め」によって、神との正しい関係を回復することでした。「悔い改めて癒される」(「イザヤ書」6章10節)のです。事実、ヒゼキヤ王は、悔い改めることで、神に赦され、「死の病」から「寿命を15年」延長されるのです(「列王記下」20章、「イザヤ書」38章)。

それに対して、どんなに友人たちがヨブに「悔い改め」を迫っても、ヨブ自身が「悔い改め」を拒み続け、神に対する異議申し立てを止めようとしなかった、そのことも忘れてはいけません。「病は神罰」説に対して、真っ向から対決しているのです。

新約聖書を信じる私たちにとっても、この問題は大切です。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」という弟子たちの問いに対して、イエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と断言されました。「神の業がこの人の上に現われるためである」(「ヨハネによる福音書」9章1〜4節)と。

3.癒される理由

「病は神罰」という因果論は意外と根深いのです。日本社会の通念は言うまでもありません。伝統的な日本の宗教風土の中には、呪いや祟りの信仰が強く残っています。病気や身体障碍、精神障碍、災難や不幸も全て、それによって説明されていきます。「ちゃんと先祖を祀っていない」「墓が荒れている」「何代前の先祖の殺傷因縁が今に祟っている」等と、無責任なことを言います。その口上が実証されることはありません。

そこまでではありませんが、因果論は現代のキリスト教信仰やキリスト教会の中にも、未だ根を張っています。そこには「神癒/ヒーリング」との関係があるのです。良い事も悪い事も唯一の神に由来するという立場(唯一神信仰)からすると、癒されるのも神ならば、病によって「打たれた」のも神と成るからです。

「共観福音書」では、イエスさまが「あなたの罪は赦された」と宣言して、病者や障碍者を癒していかれる御姿が描かれています。勿論、イエスさまに「神の権威」があるということを言いたいのですが、その病気や障碍は神に打たれた結果であるという、当時の人たちの信仰を反映してもいるのです。

実際、「神癒」の信仰を強調しつつ、神を善なる御方と言い続けると、多神教的傾向が生まれてしまいます。神と同等か、少し劣る程度に強力な悪魔、悪霊の勢力を設定せざるを得なくなるのです。「神癒」を行なっている教会が、同時に「悪霊祓い」も盛んになるのは、自然の摂理です。多神教的傾向が必ず出て来てしまうのです。

私が「イエスさまの御言葉は凄い!」と思うのは、むしろ、イエスさまが、あらゆる因果律(如何にも人間が説明するような)を超越しておられるからです。私たち自身を振り返ってみれば、何か不幸や災難に遭ったり、病気に罹ったり、障碍を負ったりすると、必ず「どうして、こんなことに成ったのか?」と原因を探します。勿論、現実世界の原因究明は大切ですが、その追及は一旦、社会性を失うと、単なる「犯人捜し」になり、家族の誰かを(あるいは、自分自身を)責め続けることにもなり兼ねません。

しかし、イエスさまは「神の業がこの人の上に現われるため」と言われるのです。ラザロの物語でも同じことを言われています。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。何が原因なのか、誰が悪いのか、そのようなことは一切、捨象されているのです。本人が悔い改めるかどうか、それすらも問われていないのです。

私自身、神の癒しを求める一人の弱い人間に過ぎません。ヨブと違って義人ではなく、罪人として、繰り返し悔い改めなければならない人間です。しかし、私が信じているのは、条件付きの取り引きをする神仏ではなく、全ての因果律を超越するキリストだけです。


【会報「行人坂」No.251 2015年10月発行より】

posted by 行人坂教会 at 05:00 | ┗こんにゃく問答