2015年11月16日

一生のおつきあい【ヨハネ5:1〜18】

聖句「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(5:6)

1.《死刑宣告》 皮膚病は肉眼による診断が可能な分野ですが、ある大病院の医師が老婦人の症状を診て「この病気は大変だよ。先ず一生治らんよ。苦労するねぇ」と言ったそうです。医師は「自分の診断能力はどうだ」とばかりに言い放ったのですが、改善を望む患者の気持ちを逆撫でする、暴力的な言葉です。しかも、後にそれが誤診と判明したというオチまで付いています。患者への「死刑宣告」にも等しい言葉です。医師はどのくらい自覚しているでしょうか。

2.《医療被害》 「マルコによる福音書」5章に登場する「長血の女」の説明には、「ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって酷く苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、益々悪くなるだけであった」との医者への苦言があります。現在でも、患者を怒鳴り付ける横柄な医者、殊更に裁くような態度の医者がいます。古代社会であれば、医者紛いのペテン師もいたはずです。勿論、イエスさまも「病人には医者が必要」と仰いますし、「愛する医者ルカ」のような、患者に寄り添う人もいたのでしょうが…。

3.《良くなる》 イエスさまの時代、ベトザタの池はローマカトリックの聖地「ルルドの泉」のように、何等かの治癒力があると庶民の間で信じられていたようです。そこに「38年間も病気で苦しんでいる人」がいますが、彼には介護や介助をしてくれる者もいません。イエスさまは、そんな彼に「良くなりたいか」と尋ねられます。何より患者本人の意志や気持ちが大切なのです。「WHO/世界保健機構」が1999年に「健康」の定義をしました。健康とは、単に病気ではない状態を言うのではなく、病んでいても、障碍や麻痺があっても人は健康であり得るのです。健康とは生きる意欲の問題なのです。私たちに、その意志があれば、主は同伴者と成って下さいます。それが「良くなる」ことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から