2016年03月27日

キリスト教こんにゃく問答][「人の子」

1.ウイラード

子どもの頃、私は観た映画をすぐに真似する癖がありました。ある時には、ネズミを飼育して増やそうとしたものです。それは『ウイラード』(1971年)というアメリカ映画を観たせいでした。

主人公のウイラードは、ネズミをペットにする気の弱い青年でした。けれども、叔父が亡き父の会社を乗っ取ったのを機に、自宅の地下室でネズミを養殖して、数千匹の大群にします。そして遂に叔父を襲わせ、喰い殺させるのでした。以後、邪魔者を次々とネズミに襲わせます。ネズミの大群がウイラードに従っていたのは、知能の高いリーダー格のネズミ、ベンがいたからですが、やがて、そのベンがウイラードに反抗するようになり、哀れ彼もまたネズミの餌食になってしまうのでした。

早速、私は「ネズミ捕獲作戦」に取り掛かり、ネズミの飼育を始めました。愚かにもネズミに餌付けをすれば、何でも命令に従うと思い込んでいたのです。ネズミの大群を使って、小学校を襲撃させる、考えただけでワクワクしたものです。ところが、ネズミは少しも命令に従いません。それどころか、やっと捕獲した二匹のネズミは、父親に見つかり、無残にも水死させられたのです。

こうして、私の最初の襲撃計画は脆くも未遂に終わったのですが、『ウイラード』には『ベン』(1973年)という続編映画があったのです。しかも、今度は子ども向けの映画に変わってしまっていました。恐らく、私のような悪い計画を立てる子が出ないようにと配慮してのことでしょう。前作で、ウイラードを殺して下水道に逃げ込んだネズミの大群は、リーダーのベンに率いられ、スーパーマーケットを襲ったりして、街をパニックに陥れます。ところが、ある時、ベンは心臓病を患っている少年と仲良しになり…という、結局は「お涙頂戴」の物語です。

映画の主題歌「ベンのテーマ」を、少年時代(「ジャクソン5」時代)のマイケル・ジャクソンが歌っていました。当時、買ったドーナツ盤を今でも私は持っています。子ども時代の私は、きっと、それなりに気に入っていたのでしょう。

2.ベニヤミン

これら二本の「ネズミ映画」によって、私の幼心に「ベン」という名前は深く刻み込まれたのでした。「ベン」が「ベンジャミン」の愛称だということは、すぐに知りました。それよりも、むしろ私が驚いたのは、ズッと後で、それが聖書の「ベニヤミン」という名前から来ていると知った時でした。更に「ビネヤーミン」とは「ヤーミン/右手、幸福、南」の「ベーン/子」という意味であることも知ったのです。

聖書には、それこそ雨の後のキノコや竹の子のように、大勢「誰某の子」と称する人が登場します。「サウルの子ヨナタン/ヨーナーターン・ベン・シャーウール」とか「エッサイの子ダビデ/ダーヴィード・ベン・イシャーイ」とか「ダビデの子ソロモン/シェロモーン・ベン・ダーヴィード」と書いてあります。このように父名を添えて、その血筋と人物を特定することは、何もユダヤだけの伝統ではありません。「アルカイダ」の指導者、ウサーマ・ビン・ラーディンの「ビン・ラーディン」も「ラーディンの子」という意味です。

「子/ベーン」は「民」を言う場合にも使います。「イスラエルの人々」と訳されているのは「イスラエルの子ら/ベネー・イシェラーエール」です。同じ職業の人たちを総称する場合にも使います。「詠唱者たち」は「歌手の子ら/ベネー・ハムショーレリーム」と成ります。「人の子ら/ベネー・アーダーム」と言われているのは「アダムの子孫」ですから、勿論「人類」の事です。単数で「人の子/ベン・アーダーム」と言えば、個人としての「人」と成ります。これは、現代ヘブル語でも同じです。

3.人の中の人

やがて、アッシリア帝国、新バビロニア帝国、ペルシア帝国、マケドニア帝国、ローマ帝国と、次々に興亡を繰り返す「世界帝国」の搾取や支配を受ける中で、ユダヤでは、この「人の子」が「メシア/救い主」を表わす暗号名のようにして使われ始めるのです。旧約聖書の「ダニエル書」、旧約偽典の「第一エノク書」「第二エノク書」「バルクの黙示録」「第四エズラ記/エスドラの黙示録」等の黙示文学の中に、メシア「人の子」が登場するように成ります。「偽典」と言っても「紛い物」という意味ではありません。匿名の作者が「エノク」「エズラ」「バルク」等に名を借りて書いたという意味です。

圧倒的な軍事力と経済力を背景にした大帝国に、祖国の独立を奪われ、一方的に制度や文化や公用語を押し付けられて、ユダヤは信仰まで奪われそうに成っていたのです。今で言う「グローバリゼーション」「ワールドスタンダード」です。その中で「人の子/人間」という呼び名に仮託して、救い主の到来を待ち望んだのです。

それにしても、何と逆説的な語であることかと溜め息が出ます。「神の子」が「人の子」という名前で呼ばれたのです。「神の子」を言い表わすために、実際には「人間」と発話したのです。そして、新約聖書の「福音書」では、イエスさまが神から託された使命について語る時、自らを「人の子」と仰るのです。

しかしながら、もしかしたら、「真のメシア」とは「真の人」として生きられる御方のことを言うのではないでしょうか。「人の子」と聞くと、私は「いよ!男の中のオトコ!」という激励の合いの手を思い浮かべるのです。その物言いを借りると「人の中の人」として生き、「人の中の人」として死んでいかれたのが、イエスさまです。飼い葉桶に生まれ、悲しむ人と共に泣き、苦しむ人と共に悩みながら、十字架の死に至るまで、祈りの生涯を全うされました。十字架を見上げて、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と呟くのは、「人の子」として生きた彼こそは、真の「神の子」だったという信仰告白なのです。

「貧しきうれい、生くるなやみ/つぶさになめし」(「讃美歌21」280番「馬槽のなかに」)イエスさまこそが「まことの神、まことの人よ、救い主よ」(「讃美歌21」248番「エッサイの根より」)と讃えられるのに相応しいのです。


【会報「行人坂」No.252 2016年3月発行より】

posted by 行人坂教会 at 05:58 | ┗こんにゃく問答