2016年09月08日

一点一画 one jot or one title(続き)その33

  • 「ゴールデンカムイ」第4〜8巻(野田サトル作、集英社)
    やはり、昔のアメリカ西部劇『悪の花園』『マッケンナの黄金』辺りが発想の原点かも知 れません。殺伐とした画調と陰惨な物語ながら、アシリパさんとの交流、厳しくも豊か な北海道の自然に身を置く中で、日露戦争の帰還兵が人間性を回復して行くプロセスこ そが、この作品の真骨頂と思っていました。ところが、売れた作品の常とは言え、物語 に絡むキャラが急増、その上、サブキャラをメインに据えたスピンオフ的挿話も加えて、 破綻ギリギリです。笑顔の快楽殺人犯、女装趣味の拷問人、同性愛のヤクザ、人皮を扱 うサイコ剥製屋など、脇のキャラをビザール仕立てにしたのもヤリ過ぎの感あり。6巻 の茨戸(札幌に10年住んでいた私には懐かしい!)における土方歳三・永倉新八コン ビの大立ち回り(黒澤の『用心棒』、ハメットの『血の収穫』)では、画が極端に乱雑に 成っていて、思わず「もう読むの止めようかな」という気分でした。しかし、8巻に、 元マタギ谷垣の「カネ餅」のエピソードがあり、文字通り「モチ直し」ました。
  • 「襲撃者の夜」(ジャック・ケッチャム著、金子浩訳、扶桑社ミステリー文庫)
    何年か前、父の日に長男がプレゼントしてくれたケッチャムの「食人族シリーズ」。前作 『オフシーズン』に辟易して放置してあったのですが、狩猟と料理法が描かれた『ゴー ルデンカムイ』を読んだせいでしょう、つい手に取って、一気に読んでしまいました。 さすがに前作ほどの衝撃はありません。但し、食人一家が缶詰の蓋で作ったらしい金属 の「入れ歯」を装着して、カチカチやりながら、ヒロインのクレアに迫って来る辺り、 彼女の内腿の肉を食いちぎる辺りの描写は堪らないものがあります。『バーバレラ』の噛 み付き機械人形のハード版みたい。クレアは父親の影響で、60〜70年代のニューシネマ のファンなのです。しかも、黒澤明の言葉「芸術家であるということは、目をそむけな いことなんだ」(恐らく、自伝『蝦蟇の油』に出て来る黒澤のドストエフスキー評でしょ う)を思い出して、そこから反撃に打って出るのです。ケッチャム自身の映画の趣味が 反映されているのでしょうが、私たちには、ニューシネマと黒澤は結び付きませんから、 アメリカの映画ファンならではの現象でしょう。
  • 「ゴールデンカムイ」第1〜3巻(野田サトル作、集英社)
    ある日、長男が第1巻をポンッと渡して、「お父さん、続き買ってよ」と言うのです。映 画『二百三高地』、和月伸宏の『るろうに剣心』、安彦良和の『王道の狗』等も思い出し ましたが、何と言っても、このマンガの魅力は、主人公の「不死身の杉元」とコンビを 組むアイヌの少女アシリパさんでしょう。彼女の口と技を通して、アイヌの狩猟、サバ イバル術、食生活、暮らしと信仰、自然観と人間観が語られると、少しもイヤミではな いのです。作者は萱野茂や更科源蔵その他、アイヌ関係の資料をよく咀嚼しています。 「手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞」の帯を見て、手塚がアイヌとシサム(和人)の戦い を描いた『シュマリ』を思い出さない訳には参りません。随分叩かれましたからね。そ れを思うと今昔の感があります。
  • 「死の鳥」(ハーラン・エリスン著、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)
    『世界の中心で愛を叫んだけもの』で有名なエリスンのアンソロジーというので、期待 して読みました。ただ、残念ながら、表題作と「ランゲルハンス島沖を漂流中」は長っ たらしいばかりで、少しも面白くありませんでした。反抗的ユダヤ作家らしく、ユダヤ・ キリスト教的物語に敢えて背を向けて、オルタナ、カウンターカルチャーを決め込んで いるのですが、力み過ぎて、読者(特に異教世界に暮らす私たち)にとっては退屈なだ けです。それに比べると、「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は「世界の中心」 を思い出させる暴力的筆致が痛快です。ラスヴェガスが舞台の「プリティ・マギー・マネ ーアイズ」、ニューヨークが舞台の「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」は 切れ味鋭いナイフの閃光です。残忍で酷薄でありながらも、作中何度か挙げられる40 年代のアメリカ犯罪映画の残り香みたいな品の良さもあります。私としては「ジェフテ ィは五つ」をお薦めします。5歳で成長が止まっている坊やの話と言えば、ギュンター・ グラスの『ブリキの太鼓』みたいな寓話かと思われるでしょう。でも、ここにあるのは 「歴史」についての考察ではなく、「時間」についての批評です。現在というものは、過 去の存在に対して凶暴に襲い掛かって来るのです。とても哀切な短編です。
  • 「ピンク映画史/欲望のむきだし」(二階堂卓也著、彩流社)
    著者は『マカロニアクション大全』『剣とサンダルの挽歌』等において、イタリアB級C 級映画の勃興と凋落を年代記風に綴っていました。それは彼自身の青春と重ね合わされ て、見事な挽歌、鎮魂歌となっていました。本書においても同じです。映画作品を論ず るに、「品格」だの「作家性」「芸術性」だのといった、立派そうに見えて、その実は怪 しげな観念は一切持ち出さず、徹底して「楽しめたかどうか」で語っていく姿勢に、改 めて感服しました。従って、ここでは向井寛、小森白、関孝二、小川欽也、木俣堯喬、 渡辺護などについて多くが語られています。私が青年時代に観ていた若松孝二、中村幻 児、高橋伴明、和泉聖治などの作家性の強い人たちの諸作は「ピンク」の本流として扱 われてはいません。それにしても、信じ難い低予算と短い製作日数で多作を強いられた スタッフとキャストの映画愛には頭が下がります。しかも、どんなに頑張ってみても、 真っ当に評価されることのない、まさに「名誉と栄光のためでなく」「殉教」とも言うべ き世界です。
  • 「バイエルの謎/日本文化になったピアノ教則本」(安田寛著、新潮文庫)
    もう20年以上前だと思いますが、牧師仲間が興奮した口調で一読を勧めてくれたのが、 この著者の『唱歌と十字架/明治音楽事始め』でした。うちの教会のKさんは音楽CD 制作会社に勤めていて、昨年、安田氏の講演会を開いておられました。日本人の音楽教 育の基礎となった「バイエル」とは何者かと、探索と思索の旅を続けるプロセス、そし て辿り着く結論は『唱歌と十字架』に似ています。著者はグーグル検索エンジンの凄さ を前にして「研究者の旅は終わった」と溜め息をつきつつも、以下のように叫ばざるを 得ないのです。「大切なのはこの長い時間に満たされた『遠方』である。クリックではす べてが近すぎる。時間による成熟が期待できない。空間を超える異郷感が得られない。 人間は時間的にも空間的にも遠くにあるものに惹かれる。そこに想いが生まれる」。星野 道夫の『旅する木』に出て来るシェルパの言葉を思い出します。
posted by 行人坂教会 at 11:56 | 牧師の書斎から