2016年10月22日

キリスト教こんにゃく問答]\「伝道と宣教」

1.霊性振起

秋になると、どこの教会でも「伝道集会」や「伝道礼拝」を開催するのが定番です。残念ながら、概ね教会の予算規模は小さいので、社会的な知名度の高い人をお招きする財力がありません。それでも、そのために献金を募って、何とか予算を確保する場合もあります。ところが、実際に著名人と交渉してみると、数年先まで日程が塞がっていたりします。私の実体験です。

どうして、不慣れな者たちが無理をして、特別な集会や礼拝を企画しなければならないのでしょうか。しかも、秋になると、各教会が一斉に似たり寄ったりのことをするものですから(バザーも同じ)、まるで競合する小規模店舗(ラーメン屋)が互いに「潰し合い」「打ち合い」をしているかのような図です。

秋になると、日本の教会が一斉に「伝道集会」「伝道礼拝」を行なうのは、米国教会の日曜学校の習慣に遡ります。19世紀の米国教会では、夏休み中に各地に分散していた子どもたちを「再結集/Rally」させる日として、九月第一主日を「ラリーデイ/Rally Day」として守ったのです。それが日本に移入されて「振起日」と訳されました。「振起日総員礼拝」「霊性振起」として、教会員全員に礼拝出席を促したのです。「伝道の秋」の始まりです。やがて1960年代には「一人が一人を♂^動」に受け継がれました。

「一人が一人を」教会へ導けば、礼拝出席は倍増するというスローガンです。「何人もの人を導け」と無茶なことを要求するのではなくて、「たった一人の人のために祈り、導け」というところが、この運動の味噌でした。しかし、今現在、この運動が跡形もないことを鑑みるに、単なるスローガンに終わってしまったようです。それに伴う精神性が欠如していたから、信仰復興運動にまで達しなかったのでしょう。

2.家庭集会

スローガンと言えば「お茶の間に福音を」というキャッチコピーも、今や懐かしい響きです。これは「家庭集会」を支えた標語でした。会員信徒の各家庭を「伝道の最前線」「前線基地」と位置付けたのです。有志会員の家庭を開放していただき、そこに牧師が「礼拝の出前」をしたのです。そうすることで、未信者の家族や近所の人たちを「信仰に導こう」としたのです。つまり、当時は「教会は敷居が高いけれども、各人の家庭ならば参加し易い」という前提があったのです。

「家庭集会」が入信のキッカケに成った人は大勢います。入信に至らないまでも、「家庭集会」での交流を懐かしく覚えている人は今も居られることでしょう。羽仁もと子の「全国友の会」(1930年〜)の「家庭集会」をモデルにしているかも知れません。また、中国共産党の弾圧下で続けられた「家の教会」運動の影響も見られます。今も福音派諸教会が熱心に取り組んでいる「セルチャーチ/Cell Church」運動もその進化形でしょう。

1990年代に、高木仁三郎が代表を務めていた民間シンクタンク「原子力資料情報室」が「反原発出前のお店」という活動をしていました。各地に講演や学習会の出前をするのです。「生活クラブ生協」は地域の班長の家庭で「班会」を開きます。これらの寄り合いにも、キリスト教会の「家庭集会」の影響を見ることが出来ます。何しろ「家庭集会」の起源は、新約聖書の時代にまで遡ることが出来るからです。

さて、「ドーナツ化現象」によって、教会周辺に居住していた会員が郊外地へ移転すると共に、「家庭集会」は各地域に伸びた教会の「ブランチ/枝」と位置付けられました。例えば、私が南大阪教会に赴任した1980年代後半には、藤井寺や東大阪はもとより、芦屋、京都、高槻、生駒まで、主任牧師と手分けして出前に行っていました。

未信者の家族(連れ合いや子どもたち)も参加するようにと、夜の時間帯に開催されることも多々あった「家庭集会」でしたが、日本基督教団の教会では、未信者の家族に信仰を強要するような感覚に違和感を抱く牧師や信徒が増える(真っ当なセンスです)と共に、家庭生活の変化から、夜の集会は次第に敬遠されるように成りました。そして、今や「他人の家庭に上がるよりも、教会に行く方が敷居が低い」と感じられる時代です。

3.福音内容

その昔「伝道」という字を「伝導」と書いた時代があったそうです。今では「伝導」と言えば、「熱伝導」「電気伝導」のように理科用語です。私が「伝道師」に成り立ての頃、ナザレン教団出身の熱心な信徒、Uさんから「昔は『教えて導いた』ので『伝導師』と書いたのですが、最近の人は『道を伝えるだけ』なので『伝道師』なのでしょうかね」と、皮肉を言われたことが思い出されます。気負ってばかりの当時は、その言葉にムカッと来たものですが、今では懐かしくも楽しい思い出です。

よく似た語に「宣教」があります。「伝道」と「宣教」、どこが違うのでしょうか。「宣教」は「ミッション/Mission」という語を翻訳したものです。元々は「派遣」という意味で、神さまから世界に遣わされた教会の「使命」を意味します。もう一つ「エヴァンジェリズム/Evangelism」という語もあります。これが所謂「伝道」です。「福音/エウァンゲリオン」の「伝達」を意味します。

比較すれば、「宣教」と言った場合には、教会の全ての働きを包括する幅広い内容を持っていますが、「伝道」と言った場合には、未信者を信徒にすることを直接目的とする働きに限定されます。「社会派」的視点を持つ教会が「宣教」を好んで使い、より「福音派」的傾向の強い教会が「伝道」を使いたがるのには、双方の指向性の違いがあるのです。

しかし、一番大切なのは「どのように伝えるか」(「宣教」を通してか、それとも「伝道」を通してか)ではなく、「伝えられるべき内容」です。それは、イエス・キリストの十字架の愛、これを措いて他にはありません。

但し「目的と方法とは、常に一致しなければならない」というのが鉄則だと思います。ヒトラー率いるナチスは「崇高なる目的のためには、路傍の花も踏み行かねばならぬ」と主張しました(ドイツの哲学者、ヘーゲルの言葉と言われています)。曰く「目標達成のためには、多少の犠牲は致し方ない」、要するに「目的のためには手段を選ばず」ということです。目的の正しさによって、手段としての悪を正当化するのです。

しかし、私たちの信仰が神の御心に適うものと成るためには、「目的と方法とは、常に一致しなければならない」のです。もしも、イエス・キリストの「愛」を証することが目的であるならば、それを伝える方法もまた「愛」でなければならないのです。イエス・キリストが目標ならば、私たちの働きもまた、イエス・キリストに倣うものでなければなりません。ベリアル(悪魔)の方法論を用いて、イエス(神)を目指すことは、それ自体が大いなる冒?と言わざるを得ません。

人を傷つけたり抑圧したりして置いて、それを「神の御旨」「福音伝道」「教会の働き」等と言うことは許されません。

キリスト教会と自称していても、マインドコントロールの手法を利用して、信徒を支配したり管理したりする教会が数多くあります。「恐怖、脅し」による強制、「愛の爆弾、愛のシャワー」による依存関係、「告白の儀式」を使った罪責感による縛り、「権威主義」に屈服させての奴隷化など、それらは、どれ一つ取ってみても、イエスさまの愛とは似ても似つかぬものばかり。暴力の一種です。

「キリスト教の普及」「信仰の証」「伝道のために」等と、大上段から言われると、反論しにくいものです。しかしながら、それらの看板が内実を伴っているかどうか、十分に吟味する必要があります。自分のことを棚に上げて批判するのは、凡そ稚拙で愚昧な行為ですから、勿論、私たちもまた、自己吟味しなければなりません。

吟味と言っても、何も難しいことはありません。「コリントの信徒への手紙I」13章1〜13節を、実際に声に出して唱えてみることです。

「伝道」「宣教」「教会形成」を掲げる時、あるいは、自分の意見を申し述べる時、他の人を批判する時、そこに果たして、イエスさまの愛はあるでしょうか。私たち自身の中に、キリストの愛は宿っているでしょうか。


【会報「行人坂」No.253 2016年10月発行より】

posted by 行人坂教会 at 20:50 | ┗こんにゃく問答