2016年11月27日

通い続ける意味

1.信楽焼きの狸

私が小さい頃、しばしば、家族の会話の中に「カヨイ」という語が聞かれたものです。子供心に「カヨイ」とは何なのか気に成っていましたが、結局、改めて親に尋ねることも無いままに、いつか、記憶の底に沈んでしまっていました。

それが「通い帳」の略であること、「通い帳」とは、主に「銀行預金通帳」のことを言っていたのだと閃いたのは、ごく最近のことです。このように何十年も放置していた語の音が、ある日突然、記憶の底から浮かび上がって来て、年齢を経てから了解することがあるのです。それにしても、「通帳」が死語化した時代に突入してから、漸く「カヨイ」の正体に思い至るとは、皮肉な話です。実際、クレジットカード全盛の昨今では「通帳」そのものが死語に成りつつあります。未だ辛うじて「通帳」は存在していますが、それを持ち歩く人は少ないと思います。

「カヨイ」と言えば、もう1つ、信楽焼きの狸を思い出されるのではないでしょうか。あの狸は、編み笠を被り、右手に「徳利」を、左手に「通い帳」、もしくは「御通」と書かれた台帳を持っています。商売繁盛の置き物ですから、「タヌキ」は「他を抜く」に、「徳利」は「利徳、儲け」に通じます。「通い帳」は「売り掛け帳」です。通常は信用売買(ツケ)をしている取引先も、大晦日には支払いをしなければなりません。それで、あの狸は「カヨイ」を手にしているのです。この季節(師走)にピッタリの置き物と言えましょう。

2.いつも一緒に

キリスト教会もまた、アドベント(待降節)、クリスマス(降誕節)を迎えようとしています。昔から、教会には「クリスマス信者」というカテゴリーがあり、クリスマスにだけ来る会員(クリスマスにしか来ない会員)がいるのです。クリスマスは、日頃、礼拝から遠ざかっていた人たちが帰って来る季節なのです。

「信楽の狸」で言えば、主日礼拝に通わないで、溜まりに溜まったツケの支払いが回って来るということかと、そんなイヤミなことを考えてしまいます。

しかし、この「クリスマス信者」にしても、見方を変えることで、こちらの心持ちが全く違って参ります。「たとえ、クリスマスだけでも来てくれるから嬉しい」と感謝して歓迎するか、「クリスマスにしか来ない『恵み泥棒』」等と陰口を叩くか、その心持ち1つで、私たち自身の信仰の在り方までが左右されてしまうのです。

この「恵み泥棒」というのは、昔の牧師たちが多用していた語です。礼拝出席も奉仕も献金もせず、教会を支える義務も果たさずに、神さまの御恵みにだけ与ろうとしている姿勢を揶揄した表現なのです。

「『恵み泥棒』に成ってはいけません!」等と戒めて、真面目な信徒たちを養成するために、牧師が編み出した用語と思います。しかし、その佇まいたるや、どこかしら「放蕩息子の譬え話」(ルカによる福音書15章11〜32節)に登場する、狭量な兄の風情を思い出させるのです。真面目な兄は、畑仕事から帰って来て、祝宴が開かれているのを見ると、拗ねてしまいます。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言い付けに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友だちと宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。

拗ねてしまった兄に対して、父親は何と言って答えていたでしょうか。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」。

「いつも一緒にいる」と、その有り難味は見えなくなり、取り立てて喜びや感謝を感じなく成るものです(家族、仕事や日課、日常生活、健康、空気や水)。失ってみて初めて、その有り難さに気付くのが、私たちの常です。教会生活、神さまの恵みも同じです。その中にいると、それが当たり前に成って、殊更に意識しなくなるのです。

しかし「いつも一緒にいる」は、それこそ、アドベントのメッセージそのものです。「この名は、『神は我々と共に居られる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。そして、もう1つのアドベント、再臨へと向かう希望でもあります。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28章20節)。

3.信仰を貯える

「いつも一緒にいる」というのは「暮らし」のことです。主日礼拝が日常生活の中心に成っている場合に、そのように言うことが出来ます。1年に日曜日が52回として、45回以上の回転数があって、シングルな(一人前の)会員なのです。

但し、そのような幸いは長くは続きません。中には、何十年も、そのような教会生活を続けることの出来た人もあります。しかし、病気や怪我その他の患いによって、礼拝に通えなくなったり、高齢に成ると共に、礼拝へ行く回数を減らさざるを得なくなったりします。誰もが遂には、全く通えなくなるのです。

私たちは、主日礼拝に通える間に、出来るだけ通って置かなくてはなりません。やがて通いたくても通えなくなるからです。「クリスマス信者」等と言わずに、久しぶりに会えた人を喜んで迎えなくてはなりません。やがて会いたくても会えなくなるからです。

「教会暦」を何度も巡って、教会の歳時記が肌身に付いて、礼拝生活をするのが当たり前に成ったら、その時こそは(たとえ有り難味を感じなくなっていたとしても)、神さまが「あなたといつも一緒にいる」暮らしなのです。この暮らしの実感を、しっかりと貯えて置くことが、信仰のエネルギーなのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年12月の月報より】

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