2017年03月06日

イエスの死を身にまとって【Uコリント4:7〜15】

聖句「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

1.《聖書アプリ》 アプリケーション・ソフトウェア、所謂「アプリ」とは「応用ソフト」です。便利なアプリが様々流通していますが、「聖書アプリ」は41ヶ国113種類の言語の翻訳で聖書を閲覧することが出来ます。米国では、日曜礼拝の時間に「聖書アプリ」の使用頻度が高まるので、牧師の説教を聞きながら、会衆は手持ちのスマホやタブレット端末で見ているのでしょう。

2.《聖書讃美歌》 昔の信徒は皆、自分の聖書讃美歌を携えて、礼拝に集ったものです。1970年代の後半に成ると、教会が「置き聖書、置き讃美歌」を認めるようになりました。近年は「マイ聖書、マイ讃美歌」への思いも薄れ、専ら教会備え付けの聖書讃美歌を使用しています。教会に手ぶらで来る便利な時代に成ったのです。しかし、昔の信徒たちが「マイ聖書、マイ讃美歌」にお手製のブックカバーを被せて大切に使っていたこと、大切なカードを栞に使っていたこと、その折々の書き込みがあったことを思い出します。まさしく、その人自身の教会生活、人生そのものが染み付いた愛用の品物だったのです。

3.《肌身離さず》 「イエスの死を身に負う」と訳すと「苦役」の印象があり、「身に帯びて」と訳すと「名誉」の印象があります。それに比べると「身にまとって」は軽やかです。さすがは「バブル時代」の翻訳です。原典の「ペリフェロー」は「持って回る」です。「身に負う」は気負い過ぎ、「使命を帯びて」来られるとウザったい印象があります。そう考えると「身にまとう」も悪くはありません。但し、持って回るのは「イエスの死」です。観念としての「死/サナトス」ではなく、「死に行く様、殺害/ネクローシス」です。パウロは自身が死に直面する度に、イエスさまとの間に苦難の共同体を見出したのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:10 | 毎週の講壇から