2017年03月20日

イエスから力は出て行った【ルカ6:17〜19】

聖句「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(6:19)

1.《安産祈願》 難産に苦しむ妊婦に麻酔が初めて処方されたのは、1847年のスコットランドです。古代中世には、聖母マリアに祈るばかりでした。ローマ教会には「聖母マリアの無原罪の御宿り」という信仰があり、神の特別な恵みにより、マリアは原罪無く母の胎に宿ったとされているのです。それ故に、イエスさま出産の際にも痛みから解放されていたと言うのです。

2.《視点変換》 もし母マリアが「無痛分娩」だったとしたら、カトリック信者は、却って聖母に祈り甲斐がありません。私たちと同じ痛みを知っている御方だから執り成しを祈るのではないでしょうか。私たちが主イエスの御名を通して祈るのは、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ」、私たちの痛みを知っていて下さるからです。ドイツロマン派の詩人、ノヴァーリスは「キリストも、その御母が限りなく悩み給うのを見なくてはならなかった。愛する者たちが悩んでいるのを見たら、どんな気持ちがするかを、キリストは知っていて下さる」と述べています。「聖母哀歌」とは異なる別の風景が立ち現われます。

3.《脱力感覚》 「平地の説教」の導入句に過ぎませんが、救いを求める民衆の余りに夥しい数に、イエスさまもお疲れになったろうと思うのです。勿論「イエスは全能の神の御子だからお疲れに等ならない」という意見もあるかも知れませんが、「力が出て行った」という句から、無感覚ではなかったと思うのです。私たちも脱力感や虚脱感に悩みます。主も同じように悩まれたはずです。十字架の責め苦が「痛くも痒くもない」はずはありません。同じく疲労困憊なさったはずです。私たちの疲れ果てた心と体と魂を、イエスさまは誰よりも御存知です。私たちを癒して下さるのも、主を措いて他にありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から