2017年03月26日

キリスト教こんにゃく問答]]「礼拝と労働」

1.働いて食べる

私は「働かざる者、食うべからず」と教えられて来ました。祖母や母は、この諺によって私の怠け心を戒めていました。まさか、これが聖書の言葉であったとは…(「テサロニケの信徒への手紙二」3章10節)。後年、聖書の中に発見した時の、私の驚きと言ったら、「豚に真珠」「目から鱗」に匹敵する衝撃でした。

前の「口語訳」では「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と訳されていました。「新共同訳」では「働きたくない者は、食べてはならない」に成っています。「大正文語訳」でも「人もし働くことを欲せずば食すべからず」です。よく見ると「働かざる者/現に働いていない者」ではありません。働く意欲や意志が問題にされているのです。当然ながら、働きたくても働けない人もいるのです。

共産党のように、労働を神聖視(偶像化)しているのでもありません(実は、レーニンも「働かざる者、食うべからず」を「社会主義の実践的戒律」と称揚して居り、この聖句は「スターリン憲法」にも引用されているのですが…)。況してや、労働の成果や実績を至上とし、利益や利潤を追求しているのでもありません。そうではなくて、パウロは「怠惰な生活に陥るな」と勧めているのです。

どうやら、テサロニケには、終末思想の影響を受けて、「世の終わりは近いから、あくせく働く必要は無い」等と吹聴する輩がいたようなのです。しかし、そんな輩もまた「兄弟」であることには違いありませんから、教会として彼らに食事を与えて、世話をしていたようなのです。それでパウロは、テサロニケに滞在していた時にも、自分は「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」と証言しているのです。殊更に自分の労働を強調し、自慢しているようにも見えて、如何にもパウロがイヤミたらしい性格に感じられます。しかし、彼が言っているのは「お互いがお互いを祈り合い、お互いに仕え合い、共に働く中に信仰共同体は生まれる」という、ごく単純な事実です。

2.苗木を植える

パウロは「天幕造りの職人」、「テント造り」を生業にしていたと書いてあります(「使徒言行録」18章3節)。コリントやテサロニケでは、きっと、仕事をしながら宣教活動を行なっていたのでしょう。テサロニケで、パウロはヤソンという人の家に泊まっていましたが、単なる居候に成らないように、滞在費を支払っていたのでしょう。但し、先の「働き続けた」という語には「生活費を稼いだ」という意味だけではなく、「福音宣教のために活動した」という意味もあるようです。

「援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした」。原始教会の使徒たちには、「援助を受ける権利」が認められていて、信徒たちが皆で彼らを養っていたのです。働く意欲を失い、怠惰に陥った人たちがいるのを見て、パウロは「模範を示すために」「働き続けた」のです。

マルティン・ルターの名言「たとえ私が明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なお私は私のリンゴの苗木を植えるだろう」が思い出されます。そう言えば、テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第19話「男の戰い」で、人類滅亡の危機が迫る中、加地リョウジが畑に水を撒いて、スイカの世話を続けていたのは、ルターの「リンゴの木」に対する庵野秀明の目配せだったのでしょう。

さて、これらのパウロの発言の背景には「十二使徒の教訓/ディダケー」があります。1世紀末から2世紀頃に、シリアで書かれたと推測される文書です。かつては新約聖書の正典と同等の価値があるとされていました。

「主の名において来るものは皆、うけ入れなさい。…来た人が旅の途上にある人ならば、できる限りの援助をしなさい。…その人が職人であってあなたがたのところにとどまることを望む場合には、その人は働いて食物を得るべきである。その人が手に職のない場合には、キリスト者であるということで無為にあなたがたと一緒に過ごすことにならないよう、あなたがたはあなたがたの洞察に従ってあらかじめ配慮しなければならない。もし彼がそのように行動することを望まないならば、その人はキリストで商売する人である。このような人たちに注意しなさい」(荒井献編『使徒教父文書』より、佐竹明訳「十二使徒の教訓」、講談社文芸文庫)。

つまり、キリスト者たる者は「無為に」時を「過ごす」ことなく「働く」者なのです。但し、信仰生活に言われる「働き」は、賃金を稼ぐこと、金儲けではありません。先の「ディダケー」で言えば、他者を「援助する」ことです。ルター風に言えば「私の苗木を植える」ことです。現実社会での成功や蓄財(「商売」)、裕福になることに対しては、むしろ、誘惑に陥らぬようにと「注意」を払っているのです。

3.聖なる務めを

こんなことを書いたのは、他でもありません、「礼拝」について考えていたからです。「礼拝」という語の、聖書的な語源は、ヘブル語の「アーバド/働く、仕事をする、勤務する」という動詞にあるからです。ここから「奉仕する」「神に仕える、礼拝する」へと拡がるのです。名詞の「アボーダー」も「仕事、職、礼拝」です。新約聖書では「礼拝」を、ギリシア語コイネーで「ラトレイア」と訳しました。本来「ラトレイア」は、労働者の働き、奴隷の奉仕、服従を表わす語だったのです。これが英語の「リタージー/liturgy」に成ると「貴いこと」という意味に成るから不思議です。

本来、古代エジプトであれ古代ギリシアであれ、労働は奴隷がすべきことと見なされていました。旧約聖書も紀元前の書物であるが故に、中には「労働は懲罰」と主張している箇所が散見されます。しかし、キリスト教信仰が中近東、アフリカ、地中海沿岸地方から北ヨーロッパへと移って行く中で、何等かの「価値の逆転」があったのです。

キリスト教信仰の普及と共に「働くことは貴いこと」に成ったのです。いや「貴いこと」という価値付けをすることによって、「働くこと」それ自体が高められて行ったのです。実際、1日に7〜8回「時禱/Horae canonicae」を行なう「聖務日課/Officium divinum」等、勤勉でなければ出来ません。「聖務日課」は、英語で「Divine office/聖なる務め」です。現代では「オフィス」は「事務所、業務施設」ですが、何を隠そう、キリスト教用語だったのです。ここにも「礼拝と労働」との繋がりが見い出せます。

イングランドとスコットランドの宗教改革は「安息日厳守主義/Sabbatarianism」を生み出します。礼拝を厳守して、日曜日には、商取引や旅行は勿論のこと、訪問や接待、スポーツ等の全てのレクレーションも禁止したのです。「聖日厳守主義」として、最近まで、日本の教会でも大切にされていました。しかし、今や「世俗の勤務/Secular office」が「聖なる務め/Divine office」より優先される時代に成ってしまいました。現代では「仕事で礼拝を欠席します」という連絡に、何の負い目もありません。

「オフィス」という語だけではありません。教会で生み出された労働価値と労働倫理は、世俗社会や企業に絡め取られ、奪われてしまったのです。奪われるだけなら未だしも、「神を神とも思わず、人を人とも思わぬ」ような利己主義を補完する材料として、悪用される結果となっているのです。

「働くことが、即ち、生きることではない」という問題提起が為されています。果たして、ハンディキャップがあって、人と同じように働けない人は生きるに値しないのでしょうか。高齢になって、以前のように働けなくなったら生きるに値しないのでしょうか。そもそも資本に仕えて働くことは、そんなに高貴なことでしょうか。非正規労働者は無残に使い捨てられ、正規雇用者も搾取された挙句に過労死させられ、グローバリズムは格差社会を招き、消費経済と営利追及は地球規模の環境破壊をもたらしています。山積する問題の大きさを見れば、資本主義が末期的症状を呈していることは、誰にとっても一目瞭然です。

そんな渦中にあって、キリスト教会は、未来の信仰共同体に相応しい労働(礼拝であり奉仕)を、独自に新しく提案する必要があるのです。


【会報「行人坂」No.254 2017年3月発行より】

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