2017年03月26日

雲に乗る者

1.雲上の神

「わたしたちは子供のころ、親を仰ぎ見た――つまり、下から見上げるという動作をした――ものだが、子供にとっては親は神にいちばん近いものではなかっただろうか。だからきっとわたしたちは、大人になると今度は神を慕って天を見上げるのだ。もちろん、雨が降ったり日が照ったりするからでもある。人知のおよばない天候に人間の生死がかかっているのだ。理由はどうあれ、わたしたちは神を求めて雲を見上げ、神と雲とを結びつけてきた。飛行機で空を飛べるようになった今日、雲の上に神がいないとわかってしまったのは、寂しいかぎりではないか。」(G・プレイター=ピニー著、桃井緑美子訳『「雲」の楽しみ方』)

それでも私は、毎日のように空を見上げています。時には、空を見上げて祈ることすらあります。そして、雲を見ると、何となく神さまがその辺りに居られるような、そんな気がするのですから、我ながらどうかしています。文字通り「雲の上の御方」を思って、天を仰いでしまうのです。21世紀を生きていながら、私たちの観念の中には、未だに、そのような文脈が残ってしまっているのです。

2.春ぎらい

春は天候が不安定です。晴れの日と雨の日とが交互に訪れるのも、この季節の特徴です。朗らかな陽射しの日があるかと思えば、どんよりと雲が垂れ込める日もあったりします。爽やかな風に心が浮き立つ日もあれば、突然の「春の嵐」に浮き足立つ日もあります。

そもそも気温が安定しないので、誰もが体調を崩し易い季節です。昔から「木の芽時」等と言って、精神の失調も起こし易い。花粉症をはじめとするアレルギーに苦しむ人にとっても、実に悩ましい季節です。年度替りで、新しい職場や転居先、学校やクラスに馴染めずにストレスを抱える人も数知れません。

私にとっても、春は苦手な季節でした。けれども、教会生活を重ねる中で、この季節を受け入れることが出来るようになりました。それは「レント/受難節」を通してです。イエスさまの十字架を偲ぶ「レント」こそは、教会が最も教会らしい季節だと思ったからです。そんな「レント」の到達点として「イースター/復活日」を迎える時、大嫌いだった季節が、それ程に嫌いなものに感じられなくなったのでした。ですから、「教会暦」に沿って、キチンと礼拝生活を守ると、身心の健康が保たれるのです。これは紛れもない事実です。それこそが、神の秩序の中に身を置くということです。

「暑さ寒さも彼岸まで」等と言って、誰しも、夏の暑さ、冬の寒さを乗り越えることに思いを向けがちなのですが、最も気を付けなくてはならない季節は春なのかも知れません。実際、春をしくじると、不調が一年中続いてしまうのです。

3.ユーミン

荒井由実(松任谷由実)に「ベルベット・イースター」という歌があります。♪「ベルベット・イースター/迎えに来て/まだ眠いけど ドアをたたいて//空がとっても低い/天使が降りてきそうなほど/一番好きな季節/いつもと違う日曜日なの」。

日本のポピュラーソング史上、初めて「イースター」を季語として歌い込んだ歌ではないでしょうか。「まだ眠い」春の日、「天使が降りてきそうなほど」「空がとっても低い」曇り空なのです。「いつもと違う日曜日なの」も、今改めて聞き直すと、イースター(復活日)が日曜日であることがさり気無く表現されています。「ベルベット」は「ビロード、天鵞絨(てんがじゅう)」ですから「パイル織りの」文様が目に浮かび、重苦しい質感と手触りの滑らかさとが同居した複雑な味わいです。

現在、ユーミン自身は「天河財辯天社」という教派神道の信者さんらしいですが、聖公会の立教女学院高校の出身です。当然、周囲にクリスチャンの友人知己もいたはずです。某教会のAさんは元教師で、「私は、ユーミンに教えたことがあるのよ」「中学時代から凄い才能があってね、『先生、見てください』って、放課後に譜面を持って来ていたのよ」と、私に思い出話を聞かせてくれました。

4.雲上の人

「ベルベット・イースター」は、1973年のユーミンのデビューアルバム、「ひこうき雲」のB面1曲目に入っていました。偶然にも先日、学芸大学東口商店街の中古レコード屋「サテライト」で、このアルバムを私は手に取ったのでした。A面1曲目は、勿論「ひこうき雲」です(名曲ですが、今思えば、プロコル・ハルムの「青い影/A Whiter Shade of Pale」とコード進行がクリソツ!)。

2013年に、宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』のエンディングに使用されたので、最近の人たちの耳にも馴染んでいる歌です。♪「空に憧れて/空をかけてゆく/あの子の命はひこうき雲」というサビの部分は誰もが覚えているでしょう。

一説によると、荒井由実は自死した友だちのことを歌っているそうです。そう言われてみれば、♪「高いあの窓で あの子は死ぬ前も/空をみていたの 今はわからない/ほかの人には わからない」という部分は、聴く度にグッと胸を摑まれる思いがします。

先に逝った人たちのことを思い出す時にも、私たちは空を見上げます。私たちは普段から「天に召された」と言い習わしていますが、そうではない、ノンクリスチャンの人でも、思わず空を見上げるのではないでしょうか。それは「手の届かなさ」を、「もう届かない思い」を吐露しているのでしょうか。でも、私は言いたいのです。「また届くよ」と。

私たちは誰でも皆、神さまの御もとに行くことが出来るのです。愛する心、信じる心、待ち望む心があれば…。

牧師 朝日研一朗

【2017年4月の月報より】

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