2017年04月30日

明日この世界が終わるとしたら

1.悪魔の選択

「朝鮮人民軍」創設85周年記念日に、北朝鮮が弾道ミサイルを発射するか、核実験をするかして「挑発行動」を取るかも知れない。それに対して、米国が「懲罰」として何等かの軍事作戦を展開するかも知れない。すると、それは「朝鮮半島有事」に発展するかも知れない…。浅田真央の引退記者会見の騒動が治まるのと入れ代わるようにして、そんな言説が盛んに報道されるようになりました。

何しろ、崖っぷちの北朝鮮の独裁者は金正恩(キム・ジョンウン)、それに対峙する米国の大統領は、何を仕出かすか分からないドナルド・トランプです。韓国は朴槿恵(パク・クネ)大統領罷免により権力の空白状態が続き、日本の安倍晋三首相はひたすら米国のお追従。その周りを取り囲んでいるのは、中国の習近平(シー・チンピン)、ロシアのウラジミール・プーチンと、カネと権力に己が魂を売り渡しているという意味では、いずれ劣らぬ「悪魔的」な政治指導者たちです。

この人たちには、人の命を大切に思う心も、平和を願う祈りも、正義と公平を実現しようとの情熱も、そんなものは一欠けらもありません。彼らの頭の中にあるのは、お金儲けのこと、自国の(いや、自分の)権力や面子だけです。まさに、私たちは「悪魔」の手の中に置かれていることが明らかになりました。たとえ今回、無事に終わったとしても、この「悪魔的」状況はこれからも続くのです。

私たちは、毎日の暮らしが如何に脅かされているか、この機会に認識すべきです。また、自分たちが当たり前と思っている世界が如何に脆弱なものか、バランスが崩れかけているかに、思いを向けるべきかも知れません。

2.命の瀬戸際

北朝鮮のやっている危険な駆け引きを、政治用語では「瀬戸際政策」「瀬戸際戦術」と言います。英語で「ブリンクマンシップ/Brinkmanship」と言います。緊張を高めることで、相手の譲歩を引き出そうと迫る政治手法のことです。「ブリンク/brink」が「縁、端、瀬戸際、危機」、「…マンシップ/-manship」が「技量、手腕」です。しかし、その危険なパワーゲームのせいで、結果的には、日本に暮らす私たちまでもが、否応無く「瀬戸際」に立たされているのです。

恐らく、本当の「有事」の際には、私たちには殆ど何も知らされないと思います。1962年10〜11月の「キューバ危機」の時、米ソは全面核戦争寸前の状態にありました。しかし、その事実関係が詳細に分かったのは冷戦終結後のことです。9月の段階で、キューバには、ワシントンを射程に置く中距離弾道ミサイル42基(核弾頭150発)が配備済みでした。もし仮に、カーティス・ルメイ空軍参謀(大戦中、日本の焦土化計画を立案実行した)の主張に従って、ジョン・F・ケネディ大統領がキューバの基地に空爆を加えていれば、直ちに核戦争が勃発したことでしょう。その際、ニキータ・フルシチョフ首相は、ワルシャワ条約機構軍を西側に侵攻させて、ヨーロッパでも戦争を始めるつもりでいたのです。しかし、幸いにも戦端は開かれず、私たちは命拾いしたのです。さもなくば、私たちの現在は無くなっていたはずです。この「もしも」が明らかになるまでには、二十数年もの長い歳月を必要としたのです。今思えば、あの時、全世界の人間と生態系が「命の瀬戸際」に立たされていたのです。

あの時、ケネディやフルシチョフのような、人間味に溢れる指導者が与えられていたのは幸運でした。それに比べて、先に挙げた政治指導者たちの顔ぶれを思い描くと、あの時よりも危機的に思われるのは、私だけでしょうか。しかも、米ソ二大国の対立という分かり易い構図ではなく、中国も加わっての「三竦(すく)み」です。いずれが蛇で、いずれが蝦蟇(がま)、いずれが蛞蝓(なめくじ)かは知らねども…。

3.りんごの木

4月24日の夕食の時、妻が子どもたちに訊きました。「もし、明日この世界が終わるとしたら、何をして過ごしたいか?」と。息子たちの答えは同じでした。「いつもと同じようにして過ごしたい」と。大変に善い答えだと思いました。いつ何が起こってもおかしくないのであれば、いつ何が起こるか分からないのであれば、尚の事、不安に怯えて無為に過ごすのではなく、淡々と日々の務めを果たして行きたいと思うのです。

「たとえ私が明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日、私のりんごの苗木を植えるだろう/Und wenn ich wüsste dass morgen die Welt unterginge,so würde ich doch heute mein Apfelbäumchen pflanzen」という言葉があります。

マルティン・ルターの言葉として引用されることが多いのですが、ルターの著作文献には、そんな言葉は認められません。どうやら、20世紀以降に流布するようになった格言であるらしいのです。ルーマニアの作家、コンスタンチン・ゲオルギウの小説『第二のチャンス』の巻末に引用されて、日本でも広く知られるようになりました。この言葉について詳しくお知りになりたい方は『ルターのりんごの木/格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』(マルティン・シュレーマン著、棟居洋訳、教文館)をお読みください。

「知ったとしても」なのか「知ったとしたら」なのか、訳し方も迷いますが、いずれにせよ、この人は「知った/wüsste」のです。私たちは「知らないまま/ohne zu wissen」終わってしまう気がします。…でも、そんなことで満足して良いはずはありません。

「そりゃあ、大人は十分生きたんだから、死んだっていいよ!」「でも、この子たちは未だ幾らも生きちゃいないんだよ!」。黒澤明の『夢』(1989年)第6話「赤富士」、原発事故でメルトダウンする赤富士を前にして、小さな子たちを連れて逃げ惑う母親の絶叫です。

牧師 朝日研一朗

【2017年5月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など