2017年07月30日

バイブル・ゴースト・ストーリー

1.怪談会

夏と言えば、怪談です。幕末から明治期に掛けては、江戸の庶民は「怪談噺」を聴くために、挙って寄席に通ったのです。幕末の初代林家正蔵(1781―1842)が「怪談噺」の元祖とされていますが、「怪談噺」と言えば、やはり、初代三遊亭圓朝(1839―1900)でしょう。『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』は圓朝の創作です。また「グリム童話」の『死神の名付け親』を翻案した『死神』は今も上演されることの多い人気演目です。圓朝は稀代の幽霊画コレクターでもありました。

怖い話を聴くと、自然と汗も引くというので、明治時代には、有名無名の語り手たちが集まって「百物語」をする「怪談会(かいだんえ)」が盛んに催されました。泉鏡花が呼び掛け人になって、柳田國男や田中貢太郎、小山内薫、柳川春葉などが取って置きの逸話を披露し合っていたのです。このような「怪談会」は、今でも日本各地で夏の風物詩として開催されていて、大変に人気があります。

ネットのイベント情報を調べてみると、東京四谷は勝興寺、福島は本法寺、高崎は少林山達磨寺と、会の性質上、お寺を会場に開催されることが多いようです。やはり、お墓の近くが盛り上がるのでしょうか。しかし、意外にも京都の「怪談会」は五条間之町(あいのまち)、「甚松庵(じんまつあん)」という「抹茶体験セミナー」等をやっているお店が会場になっていました。京都は寺が多過ぎて、敢えて外したのでしょうか。それとも、参加者の間口を広げるための企画なのでしょうか。感心しました。

2.幽霊譚

聖書にも「幽霊」という語が出て来ます。すぐに思い浮かぶのが、イエスさまが「湖の上を歩く」エピソードです(「マタイによる福音書」14章22〜33節、「マルコによる福音書」6章45〜52節)。

イエスさまは、弟子たちを舟に乗せ、ガリラヤ湖を渡るように送り出します。御自身は独り山に登って祈っています。しかし、弟子たちの乗った舟は逆風に悩まされて、岸に着けないで難儀しています。夜も明けようかという薄明の中を、人影が湖上を歩いて、こちらに近付いて来るではありませんか。弟子たちは恐怖の余りパニックになり、「幽霊だ!」と叫びます。ギリシア語原典には「ファンタスマ」と書いてあります。ラテン語でも英語でも「Phantasma」は「幽霊」の事です。

勿論、弟子たちが「幽霊」と思ったのはイエスさまでした。イエスさまは「安心しなさい。私だ。恐れる事はない」と語り掛け、溺れそうになったペトロには「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱り、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と讃えるのでした。それが聖書の本筋なのです。

しかしながら、このエピソードには、やはり、どこか怪談(と言って悪ければ、怪異譚)の趣きがあるのも事実です。皆さんも自分に当て嵌めて想像してみて下さい。海辺や湖で夜釣りをした経験があれば、真っ暗な水底の恐ろしさを身に沁みて感じるはずです。それどころか、弟子たちの場合には、陸地に辿り着けぬまま、ボートの上にあり、風が出て波立っています。そんな時、こちらに向かって、黒い人影が湖上を近付いて来ます。かなり、ヤバイです。私などは恐怖の余りに失禁してしまうかも知れません。

3.口寄せ

旧約聖書で幽霊譚を「1つ挙げろ」と言われれば、何を措いても「サムエルの亡霊」でしょう。「サムエル記上」28章の物語です。紀元前1000年、イスラエルの王サウルはペリシテ軍との最終決戦を前にして、大きな不安を覚えます。既にサウル王は主なる神ヤハウェから見限られていたために、託宣によっても夢によっても「ウリムとトンミム」(祭司の使う占いの道具)によっても、ヤハウェは何も応えて下さいません。

思い余ったサウルは、夜に兵を2人だけ従え、陣を抜け出して、エン・ドルに住む「口寄せの女」を訪ねるのでした。かつて口寄せ女と魔術師を追放したのはサウル王でしたが、皮肉にも今や王自身が口寄せ女の力を借りようとしているのです。しかも、陰府から呼び出す相手は、何と預言者サムエルだったのです。若き日に自分を指導してくれたサムエルに「為すべき事を教えて下さい」と、サウル王は泣き付きます。しかし、サムエルの預言は厳しいものでした。サウルの軍勢は敵軍に破れ、王も王子たちも殺され、イスラエル王国はダビデのものになると言うのです。それを聴くや、サウル王は忽ち地面に倒れ伏すのでした。

口寄せを行なう巫女と言えば、日本では、恐山のイタコ、琉球のユタが有名です。朝鮮半島にはムーダン(巫堂)がいます。こちらは政治にも介入するので厄介です。最近では、朴槿恵(パク・クネ)大統領失脚の原因となった崔順実(チェ・スンシル)もムーダンです。古くは、李氏朝鮮第26代王高宗(ゴジョン)の妃、日本人によって暗殺された閔妃(ミンビ)もムーダンで、莫大な国費を呪術のために浪費したとされています。

欧米でも「チャネリング/Channeling」と言って、より高次な霊的存在、即ち神や聖霊、天使や精霊、死者や宇宙人と直接交流(交信)する宗教(及び疑似科学)が引きも切らず存在しています。「幸福の科学」の大川隆法が、仏陀やイエス・キリストや宇宙人の「霊言」を語ると称しているのも、この流れを汲んでいます。

それにしても「より高次な存在と交信した」等と称して悦に入っているのは、如何にも愚かしいことではないでしょうか。イエスさまが、庶民の悲しみの声、苦しみの叫びに耳を傾けて居られたことを忘れてはなりません。「群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた(「マルコによる福音書」6章34節)と書いてある通りです。

牧師 朝日研一朗

【2017年8月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など