2017年09月08日

旭日亭菜単(続き)その41

  • 「西の魔女が死んだ/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    表題作は楡出版以来23年ぶりに読みました。著者のデビュー作ですが、作中人物の他者に対する姿勢が一貫していることを、改めて確認しました。他者が人間であれ幽霊であれ、自然現象であれ動植物、あるいは鉱物であれ、語りかける相手(位格)として認識しているのです。心の中で呟く場合も含めて、語りかけることで、その相手も心を持った存在へと変わるのです。そして、これこそが、そもそもファンタジーの基本でしょう。前日譚「ブラッキーの話」「冬の午後」「かまどに小枝を」が収録されています。特に巻末の書き下ろし「かまど」は「西の魔女」に対する20年越しの返書に成っています。勿論、語り手は「おばあちゃん」自身です。秋の雨風と陽光が胸に深く染み透って来るような味わいです。今回この一連の作品を読んで、やはり、テーマは「おばあちゃん・ママ・まい」と受け継がれるWise Women(魔女、占い女、産婆)の感性であると思いました。残る作中人物は(既に世を去ったおじいちゃんは別格として)パパとゲンジさん。私の役回りはゲンジさんか(エロ本あるしなあ)。映画だと木村祐一だね。
  • 「文豪妖怪名作選」(東雅夫編、創元推理文庫)
    同じ編者による『日本怪奇小説傑作選』全3巻(紀田順一郎と共同)と被る作品が1つも無くて驚きました。私のベストは日影丈吉の「山姫」です。御岳山の宿坊に泊まったこともあるので雰囲気は実感できますし、何より急転直下のホラー描写が凄い。この衝撃をもたらすために、敢えてエッセイ風の文章を淡々と綴っていたのです。宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」を読み、萩尾望都の『11人いる!』の原点はここにあったかと納得。椋鳩十の「一反木綿」は童話作家にしてこの残酷趣味。火野葦平の「邪恋」、内田百閧フ「件」、佐藤春夫の「山妖海異」には、作家としての力量を思い知らされます。特に「山妖海異」の女の水死体を妊婦と看破する辺り、おどろしさ倍増、参りました。泉鏡花の「天守物語」は芝居や映画で有名な作品ですが、初めて読みました。そもそも姫路城天守には、幼少時、何度も登っていますので、城化物の長壁姫にも親愛の情を抱くものです。巻末に寺田寅彦の小論「化物の進化」が置かれているのも粋な計らい。「化物がないと思うのはかえって本当の迷信である。宇宙は永久に変異に充ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻である。それを繙いてその怪異に戦慄する心持がなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」。
  • 「ゴールデンカムイ」第11巻(野田サトル作、集英社)
    帯に「テレビアニメ化決定!!!」とありますが、深夜枠にしても、原作そのままというのは無理でしょう。夥しい流血や人体破壊描写もさることながら、入れ墨脱獄囚24人は変質者ばかり。例えば、この巻に登場する姉畑支遁(『動物記』のシートンからの命名)は獣姦と動物虐殺を繰り返します。それはともかく「稲妻強盗と蝮のお銀」の展開から顛末までが圧倒的な迫力です。首を打ち落とされたお銀の首が転がって、茨木童子よろしく鶴見中尉の軍靴に咬み付く場面、痺れます。この夫婦強盗の遺した赤子を、アイヌのフチに預ける場面転換の妙(「子供は親を選べない」「あの夫婦は凶悪だったが…」「愛があった」)。このエピソードの合間に、尾形上等兵の父親殺しのエピソード(「あんこう鍋」)を、フラッシュバックのように挟んだのも素晴らしい。
  • 「女子高生の裏社会/『関係性の貧困』に生きる少女たち」(仁藤夢乃著、光文社新書)
    「社会保障も法律も、基本的に未成年は保護者に守られていることが前提とされている。行政は、学校は、大人は、10代の子どもたちの「秘密」を守ってくれない。仕事や住まいを与えてくれる裏社会のスカウトよりたちが悪い。子どもたちをほんとうの意味で守ってくれる大人はどこにいるのか」。著者の訴えに虚を突かれた。「前提」そのものが間違っているのです。未成年は保護者の帰属物としか見做していないのです。親も教師もカウンセラーも、大人たちは皆、子どもたちを一個の独立した人格として認めてはいないのです。それで守秘義務も存在しないのです。「高校生のときから、私はいつも疑問に思っていた。なぜ、裏社会の大人にできていることが、表社会ではできないのだろうかと」。JK産業では、わずか3人の役割、スカウト(少女たちに声をかける)、店長(仕事と生活目標を与える)、オーナー(全体を監督し、少女たちを激励する)の分業で、少女たちの居場所と関係性とを構築していく。何と彼らは就労支援、居住支援、貯蓄支援、学習支援まで行なうのです。少年少女に繋がらない、向き合わない、面倒を見ないという点で、社会福祉は風俗産業に遠く及ばないのです。だから、著者は「めげない援交おじさん」を見習って欲しいと訴えます。危ない裏社会を彷徨っている少年少女たちの姿を認め、声かけをして、彼らと向き合って欲しいと言うのです。そう言えば、著者の「女子高生サポートセンターColabo」のサポート会員が、うちの教会にもいました(!)。
  • 「最下層女子高生/無関心社会の罪」(橘ジュン著、小学館新書)
    私は渋谷センター街が好きで、時々行きます。原宿や秋葉原のように、そこに来る人たちの目的や傾向に、何等の方向性もないのです。その象徴があのスクランブル交差点なのでしょうね。この本の中にも、何となく渋谷に来てみたという女の子たちが登場します。この本に紹介されているのと似通った境遇の女の子たちも大勢いるはずなのです。貧困や性虐待、イジメや差別、自殺…。今こんなにも日本の家族は壊れてしまっているのですね。ネグレクトの一形態として「教育虐待」という語もあるのです。どの子も親子関係の中で苦悩しています。核家族の傾向なのか、親子の撞着が強過ぎるように思えます。子どもが親を捨てられなくなっているみたいです。97年の風営法改正(?)により、デリヘル乱立、供給過剰となり、「風俗嬢は女性の最後のセーフティーネットとして存在していたが、現在ではその役割を果たせてはいない。風俗嬢の中でも「勝ち組」と「負け組」が混在する格差社会≠ノなってしまっている」。この指摘に、二階堂卓也先生が、AV時代に突入した1980年代、ピンク女優たちが居場所を失ったと嘆いていたことを思い出しました。
posted by 行人坂教会 at 17:29 | 牧師の書斎から