2018年02月26日

実らない無花果(イチジク)【ルカ13:6〜9】

聖句「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(13:8,9)

1.《照る山紅葉》 京都に暮らすご夫妻の話です。庭の山紅葉が紅葉しなくなったので、植木屋に植え替えさせようとしました。植木屋は「紅葉が可哀想です。もう少し待ってください。山の上では綺麗に照っていたのです」と言いました。その会話を、まるで紅葉の精が聞いていたかのように、翌年の秋には紅葉したと言います。まるで能楽の『六浦』のような話ではありませんか。

2.《色々な実り》 パレスチナ地方の無花果は、夏と秋、年に2回実を付けるそうです。神さまが実りを期待して居られる無花果は「神の民」、教会です。実を付けなかった「3年間」は「長い間」の意味です。但し、求められているのは「悔い改めの実」と限ったものではありません。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22節〜)。神さまは何もかもを要求されてはいません。どれか1つで良いのです。他の人と同じ実を付ける必要はありません。自分らしい実りで良いのです。むしろ、自分自身が実りであり、私の人生そのものが主に奉げるべき実りなのです。

3.《未来の実り》 葡萄園の園丁であるイエスさまは、自分を信仰者、義人、救われた者と自惚れている人たちに向かって「悔い改めよ」と言われました。しかしながら、主は罪人を招かれ、滅ぶべき者とされた徴税人や娼婦と共にあり、慰め励まされました。実りを期待されているのは事実ですが、翻訳の「来年は…」は不正確です。ギリシア語原典は「これから先、この後、将来」です。猶予1年では無かったのです。イエスさまは借金の取立人のように期限を切ったり、ノルマを課したりしているのでは無かったのです。人生も信仰もゆっくりと時間を掛けて、腰を据えて掛からないと実を結ぶことはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から