2018年03月25日

結び上げること

1.桜の散る速度

(明里)「ねえ、秒速5センチメートルなんだって」―(貴樹)「えっ、なに?」―(明里)「桜の花の散るスピード」―(貴樹)「ん〜。明里、そういうこと、よく知ってるよね」―(明里)「ねぇ、なんだか、まるで雪みたいじゃない?」―(貴樹)「そうかなぁ。ねぇー、待ってよ」―(明里)「貴樹くん、来年も一緒に桜、見れるといいね」。

小学5年生の女の子、篠原明里(あかり)と同級生の男の子、遠野貴樹(たかき)が、学校の帰り道でしょうか、桜の花の舞い散る坂道から踏切へと(新宿区参宮橋駅の周辺とされています)歩きながら会話をしています。けれども、翌年、女の子は小学校卒業と同時に栃木県下都賀郡岩舟町に引っ越して行き、もはや二人が舞い散る桜を一緒に見ることはありませんでした…。

大ヒット作『君の名は。』(2016年)で広く知られるようになった、新海誠監督の『秒速5センチメートル』(2007年)のプロローグです。桜の季節になると、この冒頭の場面が思い起こされるのです。

この作品は3つの短編連作から構成されています。第1話『桜花抄』は、中学1年生の冬、鹿児島県に引っ越すことが決まった貴樹がJRの在来線を乗り継ぎながら、岩舟に住む明里に会いに行く話です。第2話『コスモナウト』は、種子島を舞台に、高校3年生の澄田花苗が、中学の時に転校して来たクラスメイトの貴樹に、恋しい気持ちを伝えられない話。第3話『秒速5センチメートル』では、成人した貴樹は東京で働いていますが、仕事に忙殺されて、恋人との関係も破局を迎えたようです。

桜の花びらが舞い散る中、冒頭に登場したのと同じ踏切を、失意の貴樹が歩いています。明里もまた同じ踏切を渡ります。擦れ違った直後、二人とも振り返りますが、その刹那、小田急線の急行が二人の視界を塞ぎます。電車が通り過ぎた後には、もう彼女の姿はありませんでした。これがエピローグに成っています。

2.拙い自分の姿

あの『君の名は。』のラストは、この『秒速5センチメートル』のハッピーエンド版だったということが分かるでしょう。とても切なく悲しい幕切れなのです。しかし、観終わった後の印象は、両作品とも驚く程に似通ったものを感じるのです。

その一方、ごく大雑把な意見だとは思いますが、『秒速5センチメートル』は、男性から圧倒的な支持を得ていると聞きました。逆を言えば、女性の反応はイマイチなのだそうです。私自身、告白すれば、新海監督の作品の中で、最も胸が締め付けられ、何日も心痛が後を引いたのは『秒速5センチメートル』でした。勿論、幾つも「個人的な体験」がカブっていることが、その理由の第一に挙げられるでしょう。

そういうことを考えていると、新海作品に共通するテーマが浮かび上がって来たのです。それは「拙さ」です。自分自身の、如何にも拙かった過去(恋愛も友情も、仕事も生活も)が否応も無く脳裏に甦って来るのです。だから、観ていて、とても気恥ずかしくあるのです。けれども、考えてみたら、恥ずかしさに顔が真っ赤に成るような、そんな感覚を久しくしていなかったのです。そう思った瞬間に、過去の「拙さ」が生々しく甦って来るのです。自らの「拙さ」に対する後悔の念は、取り戻すことの出来ない過去と、現在の自分とを引き合わせますから、何とも知れない心の疼きを伴うのです。

今の自分から見ると「もどかしさ」以外の何ものでも無いのですが、あの時の自分にとっては、それが精一杯だったのです。『雲の向こう、約束の場所』(2004年)にも、『言の葉の庭』(2013年)にも、同じような「もどかしさ」の悲しみが漂っています。

3.擦れ違う人々

オールドファンは「君の名は」と聞けば、岸惠子と佐田啓二(中井貴一の父親)が主演した松竹映画『君の名は』3部作(1953〜54年)、もしくは、同名のNHK連続ラジオドラマ(1952〜54年)を思い出されるでしょう。最近の映画ファンのために言って置くと、2007年の『ALWAYS/続・三丁目の夕日』で、戦争のために引き裂かれた昔の恋人、薬師丸ひろ子と上川隆也が「日本橋」の上でバッタリ再会する場面は、『君の名は』の「数寄屋橋」に対する目配せのようなものを感じます。

そうです。かつての『君の名は』は「すれ違いメロドラマ」の典型とされていました。当時の観客は、恋人たちが寸での所で出会わないまま、擦れ違って行く描写に何度ヤキモキさせられたことでしょう。客席から「あー」と溜め息が漏れたと聞いたことがあります。しかし、あの時代には、たとえ擦れ違っても、いつか必ず会えるというドラマの鉄則がありました。何しろ「袖触れ合うも多少の縁」が実感として残っていましたから。現代は、そのような信頼が抱きにくい時代なのでしょう。

同じ時代、同じ世界に生きるものとしての連帯感、共感のようなものを取り戻すことは出来ないのでしょうか。街で擦れ違う人に対して…というのは難しいかも知れません。しかしながら、同じ電車やバスに乗り合わせた人に対しては如何でしょうか。やはり、難しいでしょうか。それなら、せめて同じ礼拝に出席している私たちは如何でしょうか。

「宗教/religion」はラテン語で「religiō/レリギオー」、その語源は「religere/レリゲレ/結び合わせる」にあるとされています。人と神、地と天とを結び合わせることです。

そう言えば、『君の名は。』の中で、宮水神社の神主である祖母が、孫娘2人に組紐を編む練習をさせながら言っていました。「寄り集まって、戻って、繋がって、それが結び」「糸を繋げることも結び、人を繋げることも結び、時間が流れることも結び」。

牧師 朝日研一朗

【2018年4月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:10 | ┣会報巻頭言など