2018年12月30日

新しい時をめざし

1.大アルカナ

荒木飛呂彦の人気マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズには、ディオ・ブランドーという強烈な悪役が登場します。彼は己の野望を遂げるために、自ら「石仮面」を被り、吸血鬼と成る道を選びます。更には、魔女エンヤ婆によって「スタンド/Stand/幽波紋」と呼ばれる超能力を手に入れるのでした。「スタンド」とは、能力者(術者)が自由に操ることの出来る守護霊のような存在です。

第3部では「DIO」という名前で、大勢の「スタンド使い」を手下に加えて、世界を支配しようとしています。このDIOが操るのが「世界(ザ・ワールド)」というスタンドです。時間を停止させた上で、敵を自由に攻撃する事が出来るのです。そして、DIOがスタンドを発動させる時、「『世界(ザ・ワールド)』ッ! 時よ止まれ!」と叫びます。そして、彼が「時は動き出す」と呟いた時には、既に敵は死んでいる訳です。

「世界/ザ・ワールド」とは、タロットカードの「大アルカナ」第22番目のカードです。カード番号は0から始まりますので、「]]T」と表示されていますが、実際には22番目なのです。「大アルカナ」はヘブライ語のアルファベット22文字に対応するとされています。最終カードですから「ターウ」に該当します。「成就、完成、総合、完璧」等の意味があります。ギリシア語なら「オメガ/Ω」(「わたしはアルファであり、オメガである」)、英語なら「ゼット/Z」(『ウルトラマン』の「ゼットン」、『マジンガーZ』、『ドラゴンボールZ』、『ワールド・ウォーZ』)です。

2.時よ止まれ

「時よ止まれ!」という宣言は、恐らく、ゲーテの戯曲『ファウスト』の禁句から来ているのでしょう。この世に絶望したファウストの前に、悪魔メフィストフェレスが現われて、契約を交わします。

(メフィストフェレス)「どうです、手を打ちませんか。/御契約をなさいませんか、あなたがこの世にある限りは/わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。/まだ人間が見たこともないような面白いものをね」。(ファウスト)「己がある刹那に向かって、『とまれ/お前は本当に美しい』といったら/己はお前に存分に料理されていい。/己はよろこんで滅んで行く。/そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい/その時は君の奉公も終るのだ。/時計が停り、針も落ちるがいい。/己のすべては終るのだ」(高橋義孝訳)。

「とまれ、お前は本当に美しい/Verweile doch! Du bist so schön」。「この瞬間よ止まれ、汝は如何にも美しい」とか「時よ止まれ、君は美しい」等、訳し方は色々ですが、要するに「それを言っちゃあ、おしめぇよ」です。禁じ手だけに強烈な力のある呪文(ファウストにとっては自己呪詛)と成っているのです。

さて、マンガの世界と違って、私たちには「時を止める」ことは出来ません。旧約聖書の「列王記下」20章(もしくは「イザヤ書」38章の並行記事)には、神さまが「日時計に落ちた影を、十度後戻りさせ」て、つまり、時を巻き戻して、ヒゼキヤ王の病を癒して寿命を延ばす徴としたというエピソードがあります。しかし、神ならぬ人の身である私たちには、勿論、時間を巻き戻すことも出来ません。

しかし、一つだけ出来ることがあります。新しく出発することです。元日に新年の抱負を語り合ったり、その決意を書初めにしたりするのも、再出発のチャンスとするためです。初夢にその年の運勢が表われると言ってみたり、初詣に行った人たちが御神籤を引いてみたりするのも、仕切り直しでしょうか。日本で「正月三が日」を休んでいるのは、仕事を休むことで、象徴的に「時を止める」宗教的な儀礼なのかも知れません。

3.新しい時を

古今東西、新年は大きな節目とされて来ましたが、毎日を新しい日として受け止めることも出来ると思います。例えば、古代エジプトでは、1日は夜明けと共に始まるとされていました。日本と同じです。ところが、メソポタミアでは、1日は夕方から始まったのです。ギリシアでは、1日は日没から日没までとされていました。ローマでは、現在と同じく夜半から1日の時間経過を考えていました。このように国や文化、宗教によって「始まり」の感覚は違うのです。

旧約聖書でも幾つかの文脈では、1日が朝から始まったとする表現があります。しかしながら、比較的後期の文書では、1日は日没から日没までとしているのです。そして、ユダヤ教では1日を日没から考えるように成りました。旧約聖書の中ですら、異なる考え方があったということです。

ともかく、毎日毎日を新しく生きることが望ましいのですが、残念ながら「日日是好日」として「日々新たにされて」生きるのは、案外と難しいことなのです。

そこで1週間ごとに「新たにされて」出発しようというのが「主日礼拝」を守る習慣です。古代のクリスチャンたちは「週の初めの日」を「主の日/キュリアケー・ヘメラ、ヘーメラ・トゥ・キュリオゥ」として守りました。ラテン語で「Dies Domini/ディエース・ドミニ」と言いました。フランス語の「ディマーンシュ/dimanche」もイタリア語の「ドメニカ/doménica」もスペイン語の「ドミンゴ/domingo」も「ドミヌス/Dominus/主」という語が起源です。日曜日ごとに復活の主を礼拝し、日々の罪を赦され、思い煩いを取り払われ、イエスさまの慰めと励ましを頂いて、再出発することが出来るのです。

現代人は肉体の健康や美容にばかり目を奪われて、魂の健康と美容は疎かにしているように思います。新しい年、主日を守る生活をすることで、内面から輝こうではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2019年1月の月報より】

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