2019年01月21日

どうぞこのまま【マタイ3:13〜17】

聖句「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(3:15)

1.《千人斬り》 千人以上に洗礼を授けたと言う老牧師の自慢を聞いて、友人が「まるで千人斬りや」と揶揄したのに思わず吹き出したことがあります。千人斬りとは、侍が祈願成就や腕試しで辻斬りをすること、あるいは西鶴の『好色一代男』の世之助のように、大勢の相手と性交渉することです。受洗は神さまの御業であって、牧師などが業績として誇るようなことではありません。

2.《洗礼否定》 パウロは「コリントの信徒への手紙T」で、教会の内輪揉めの原因が「誰に受洗したか」にあるとして、自分は誰にも洗礼など授けていないと叱りました。実は、イエス御自身も誰にも洗礼など授けていないのです(ヨハネによる福音書4章2節)。洗礼は、原始キリスト教会が、ユダヤ教のエッセネ派かクムラン教団の流れを汲む洗礼者ヨハネから引き継いだ儀式です。福音書中、イエス御自身が洗礼に関わるのは、そのヨハネから受洗する場面だけなのです。しかも、ヨハネは「神の子」に「罪の悔い改めの洗礼」を授ける等と考えられず、一旦は、何とかして思い留まらせようとさえするのです。

3.《今のまま》 イエスさまは「神の子」であることに固執せず、十字架の死に至るまで「人の子」として生きることを決断されたのです。それが「キリストの洗礼」です。それまでのナザレでの暮らしから、新たに進むべき道に一歩を踏み出されたのです。「今は、止めないでほしい」は「今は、許して」です。「至らぬ身ながらも受けたい」と、私たちの受洗を決断する態度と同じです。英訳聖書では「レット・イット・ビー」とも訳される箇所です。洗礼を授けるヨハネの側の遜った姿勢にも注目しましょう。洗礼は両者の共同作業、しかも神さまの御心に従う、これこそが「正しい」在り方なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から