2019年03月31日

死者に永遠の安息を

1.生ける死者

レント(受難節)からイースター(復活日)に掛けての季節、毎年、私は「復活」とは何だろうかと思いを巡らせます。言うまでも無く、キリスト教信者が目標にしている「復活」とは「キリストの復活の命に与(あずか)る」ことです。つまり「主にある復活」「主による復活」です。逆を言うなら「主によらない復活」「主と共には無い復活」という邪道も存在する訳です。凡そ、ホラー小説、ホラー映画の真骨頂は、ここにあります。

ロシアの作家、レオニード・アンドレーフの『ラザルス』は、「ヨハネによる福音書」11章で、キリストによって墓から呼び戻されたラザロが辿る、恐怖の人生を描いた物語です。再生したラザロの体からは死臭が消えず、死の世界を見た目は虚無に満ちています。最初は、歓迎していたベタニア村の住民も、次第に彼を避けるようになり、遂にはマリア、マルタの姉妹からも見捨てられて、各地をさ迷い歩きます。やがて「死者の中から甦った男」という評判を聞き付けたローマ皇帝に召喚されますが、正面から彼の目に見入ってしまった皇帝は恐怖の余り、ラザロの両眼を抉り出して放逐するのです。

物語の幕切れ、沈み行く夕陽を追うようにして、両の手を前に伸ばして、盲目のラザロが荒野を歩いて行く姿は、そのまま「ゾンビ」「生ける死者」です。『ラザルス』(1918年)が「世界最初のゾンビ小説」と呼ばれる所以です。

この小説の中では、ラザルス(ラザロ)は不信者(キリストを信じない者)として描かれています。キリストによって復活させられたにも拘わらず、彼自身は信仰の無い者だったが故に「主によらない復活」だったのです。即ち「生ける死者」と成った訳です。

2.恐怖の復活

「モダンホラー」における同趣旨の作品として、すぐに思い出されるのが、スティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』(1983年)です。田舎町に引っ越して来た若い医師の家族が主人公です。ルイスとレイチェルの若夫婦に、幼い娘アイリーン、生まれたばかりの息子ゲージの幸せな4人家族です。

けれども、ある日、可愛がっていた猫が交通事故で死んでしまいます。幼い娘に猫の死を伝えられないルイスは、隣人のジャドに勧められるまま、裏山の「ペット霊園」に埋葬します。すると、翌朝、死んだはずの愛猫が帰って来たのです。但し、猫は腐臭を発してヒョコヒョコ歩く、別の凶暴な「何か」に変わり果てていました。呪いの力を借りて、人間が死者を復活させようとすると、恐ろしい事が起こるのです。

この話が本当に恐ろしくなるのは、この後です。今度は息子のゲージがタンクローリーに轢かれて死んでしまうのです。ルイスはジャドの制止を振り切って、息子の死体を抱きかかえて裏山に向かうのですが…。この後の展開はご想像にお任せします。

キングの小説がホラーなのは、愛猫や愛児が化け物に成って襲い掛かって来るからではありません(それも結構、怖いけど…)。それ以上に、愛する子どもを亡くしてしまう事があり得るという、世界の現実に対する恐怖です。こんなに恐ろしい事は他に無いのです。愛するが故の恐怖です。深く愛するが故に、その人の命が突然に奪われる事は、耐え難い恐怖なのです。だから、本当の恐怖は悲しみに彩られているのです。

ウィリアム・ワイマーク・ジェイコブスの短編『猿の手』(1902年)は、持ち主の願いを3つ叶えてくれるという「猿の手」のミイラが巻き起こす恐怖を描いています。老夫妻が「死んだ息子を生き返らせてくれ!」と「猿の手」に願ったために、深夜、死んだ息子が帰って来るのです。激しく玄関のドアをノックする音、半狂乱に成って息子を出迎えに走る妻…。小学生の時に読んだのですが、思い出すだけで、今も身の毛が弥立ちます。「猿の手」の教訓は「定められた運命を無理に変えようとすれば災いが伴う」という事です。

ホラー小説の古典、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)においても「人間の手による復活」が描かれます。医学生、ヴィクター・フランケンシュタインが死体を繋ぎ合わせて蘇生実験を繰り返した挙句、「怪物」を生み出してしまうのは、母の病死が契機です。「神の摂理に反する科学による創造」として語られる事が多いのですが、死体が材料に成っている事を考えると、むしろ「主によらない復活」がテーマでは無いでしょうか。

このように、キリストによらぬ復活の試みは悉(ことごと)く失敗するのです。人間の科学や呪術の力による復活は、神の御業の醜悪極まりないパロディに成り果ているのです。

3.アドベント

今のところ、私たちが死者に対して出来る事は、神に祈る事だけです。日本では「レクイエム」が「鎮魂歌」と訳される場合がありますが、その訳語は正しくありません。「レクイエム」とは「死者のためのミサ曲/Missa pro defunctis」の入祭唱の最初の言葉「Requiem aeternam dona eis,Donine:/主よ、永遠の安息を彼らにお与えください」「et lux perpetua luceat eis./そして永久の光が彼らを照らしますように」から来ています。荒ぶる「魂を鎮める」のではなく「永遠の平安、休息」を願っているのです。

レクイエムの最後は「楽園歌」です。これは出棺の際に歌われました。「楽園へ/天使たちがあなたを導いてくださいますように/…天使の合唱隊はあなたを迎え/かつて貧しかったラザロと共に/永遠の平安を得る事が出来ますように」。

愛する者の死は、私たちにとって大きな悲しみです。しかし、私たちが求めるのは「主による復活」である事を忘れてはなりません。その時が来るまでは、今は亡き愛する人の「安息」をこそ祈るべきです。私たちも静かに信頼して、イエスさまの「再臨/Adventus」の時を待ちましょう。「復活」を待ち望む事もまた「アドベント」なのです。

牧師 朝日研一朗

【2019年4月の月報より】

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