2019年06月24日

聴く耳はあるのか【ルカ8:4〜10】

聖句「イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(8:8)

1.《ソローの雨音》 折角のバザー当日が雨天だったりすると、恨めしく思われます。しかし、信仰の立場から言うと「晴れても恵み、降っても恵み」です。米国の詩人、H・D・ソローは生涯を通じて定職に就かず、瞑想を中心にした暮らしを営みました。湖畔の丸太小屋で暮らした時、1日中雨音を聴きながら、遂には自身と雨音とが一体となる体験をするのです。それが「聴く」ことです。

2.《大喜利謎掛け》 「種を蒔く人」の譬え話の後、イエスさまは「耳ある者は聞け」と叫ばれました。弟子たちすら譬え話の意味を理解できないのに、群集に対しては「神の国の秘密」等と仰ると、主が如何にも大衆を見下しているかに思われます。私は「笑点」の「大喜利」で行なわれる「謎掛け」のようなものだったと思います。目先の御利益や興味本位で集まった群衆に「謎掛けのお題」を出したのです。それを持ち帰った人々は、自身の暮らしや人生の中で「神の国」を思い巡らすのです。答えは1つではなく、模範解答や正解もありません。「群集」が「一人一人」に立ち返って、自身の心で御心を捜し求めるのです。

3.《命を投げ出す》 預言者イザヤが召された時の御言葉が引用されています。ユダ王国の民が預言を聞き入れてくれれば本望ですが、それを民が理解するのは国が滅んでからだと、神は言われます。イザヤは「引き裂かれた心」を抱えて活動をするのです。神の心が引き裂かれているのです。イエスさまの目指す所もまた「この世の王国」でなく「十字架」です。「譬え話/パラボレー」は「側に蒔く/パラバルロー」から来ています。中世には「命を賭ける」の意味で使われるようになったと言われています。主は課題を投げ与えられたのみならず、御自身の十字架によって、神の御心を証されたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から