2019年07月29日

祈れない日の祈り【Tテサロニケ5:16〜25】

聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が…」(5:16,17,18)

1.《祈れないとき》 故石井錦一牧師(松戸教会)が「信徒の友」誌巻頭に連載していた祈りを編集した『祈れない日のために』という本があります。その中に「神さま、祈れないのです/祈りたくないのです」という叫びのような祈りがあります。現役牧師が信徒向け雑誌に書いた衝撃も然ることながら、これもまた祈りであるという事実の提示こそは大きな驚きでした。しかし、改めて「詩編」を開けば、同じような嘆き節、怨み節が幾らでも見出されるのです。

2.《通じない祈り》 自らの不信仰に悩むのは信仰者だけです。信仰のない人は信じられない気持ちと葛藤することはありません。不信仰もまた信仰の一種なのです。「不通の/通じない」苦しみなのです。神さまと思いが繋がらない、通じない不安と苛立ちなのです。「神通力」という語があり、特殊な「霊能力」を意味しますが、大抵の人は「祈りの通じない」現実の中にあって苦しんでいます。信仰者か否かを問わず、願いが叶わなかった時、自らの不信仰を嘆くか、反対に神や仏を逆恨みするかです。しかし、不信仰なままで良いから、神に祈ること、訴えることを続けて欲しいのです。神さまとのラインを断ってはなりません。

3.《御心と人の心》 上記の聖句は、嬉しくもないのに「喜べ」、祈れないのに「祈れ」、辛いのに「感謝しろ」と言われているようです。作り笑いをしたり敬虔ぶった仕草、ウソっぽい祈りをしろと言うのでしょうか。でも、それは自身や周りの人に向けたもので、神に向かっていません。「キリスト・イエスにおいて」は「十字架」です。悲しみの中にあって祈れない私たちのために、イエスさまの「十字架」があるのです。神が先ず私たちを祝福し、恵みを約束され、「何でも言ってみなさい」と御心を開いてくださっているのです。それこそが「神が望んでおられること(テレーマ)」、即ち「神の御心」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から