2019年08月24日

旭日亭菜単(続き)その53

  • 「平成怪奇小説傑作集1」(東雅夫編、創元推理文庫)
    いずれ劣らぬ傑作揃いです。毎度ながら、編者の怪奇小説に対する批評眼と愛着の深さには脱帽します。小池真理子の「命日」、板東眞砂子の「正月女」と「因縁物」の連発は凄いです。けれども、脊椎カリエスで死んだ女の子の霊障などという落ちは、実際に脊椎カリエスを患っていた友人(故人)を知る私には噴飯物。ヒロインの複雑怪奇な心の動きの描写が、遂には圧倒的なホラーを招き寄せる「正月女」に軍配を挙げざるを得ません。幻想的な雰囲気では、皆川博子の「文月の使者」が圧巻です。泉鏡花の『天守物語』ならぬ「煙草店主物語」です。宮部みゆきの「布団部屋」は読後感がジーンと長く後を引きます。篠田節子の「静かな黄昏の国」は、高齢化社会と核汚染とを絡めて描かれた直球デストピアSFです(福島原発事故の9年前に執筆された)。但し「核燃料サイクルが軌道に乗り…」という部分は苦笑せざるを得ません。1990年代の段階で「核燃サイクル」の虚構は見えていましたから。
  • 「キリスト教と日本人/宣教史から信仰の本質を問う」(石川明人著、ちくま新書)
    著者は「非キリスト者に読んで欲しい」というような事を仰っているが、読み終わった時に、むしろ「是非、キリスト者にこそ読んで貰いたい」と思いました。日本社会に暮らす圧倒的大多数の人たちは、カトリックとプロテスタントの違いも分かりません。そんな人たちにとっては、伝統的な(と、少なくとも思われている)神仏や習俗を敵対視し、上から目線で(自分も実行できない)聖書の教えを説くキリスト者など、真に鼻持ちならない存在なのです。プロテスタントが聖書に執着する事も、所詮は「活字信仰」に過ぎません。教派とか教義とか信条とか聖書解釈とか、そんな事柄に拘泥して(本当は、殆どの日本人キリスト者にとってさえ自分たちの歴史では無いのに)内輪揉めしているのも馬鹿げた事です。但し、著者が「村や町などのレベルでも、もう偏見や嫌がらせなどはなく、キリスト教徒であるがゆえに日常生活で不利益を被ることはありえないとほぼ断言できる世の中になった」(p.235)と仰っている、それは都市生活者の甘い現実認識です。
  • 「椿宿の辺りに」(梨木香歩著、朝日新聞出版社)
    「痛み」から始まる物語です。耐え難い痛みこそが冒険へのスタートと成ります。「冒険」と言っても、スピリチュアルな冒険、と言うか探索なのですが、いつもの事ながら、人道を踏み外しそうな「スピリチュアリズム」の手前で立ち止まる著者の器量たるや、大したものです。仮縫氏や亀シ等という霊感の強そうな人たちも登場しますが、彼らに向けられる眼差しも等身大で優しいものです。曰く因縁のありげなお稲荷さんも大黒さんも、川の氾濫も江戸時代の惨事も、決して呪いや祟りには向かっていないのです。大きな自然の循環に向かっているのです。何と言っても、この物語のクライマックスは、山幸彦が珠子と一緒に囲炉裏の上の越屋根の窓を開く場面です。二人の協同作業によって空気の循環が始まり、皆が解放されて行く契機と成るのです。「この痛みに愛着を感じる」「実は、痛みに耐えている時が、人生そのものだった」という山幸彦の最後の告白が、この物語の奥深さを示しています。もしかしたら、著者は現代日本における「Bildungsroman/教養小説、自己形成小説」の新しい形を模索しているのかも知れません。
  • 「草を結びて環を銜えん/ケン・リュウ短篇傑作集4」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    吉村昭『羆嵐』のファンにとっては、冒頭の「烏蘇里(ウスリー)羆」は堪りません。スチームパンクの要素も、幻想文学(変身譚)の要素もあり、『ゴールデンカムイ』のようでもあります。しかし今回、特に胸に響いたのは、表題に成っている「草を…」と「訴訟師と猿の王」です。共通するのは、唐朝から清朝へ移行する時代、漢民族が満州族の外来王朝に支配される時代がテーマに成っている事、聖人君子とは程遠い主人公が、ふとした義侠心から何の見返りも望まず、人を助けて無残に殺されて行く事です。巻末の「万味調和」も凄い。かの『三国志』の英雄、関羽が中国人移民のリーダーとして開拓期のアイダホに再生して、白人たちとも食を通じて交流して行きます。以前「将軍のチキンを探して」(The Search for General Tso)という番組を観た事を思い出しました。米国生まれの中華料理「左宗棠鶏」の起源(つまり、中国移民が米国社会に根付く歴史)を探るドキュメンタリーでした。
  • 「悪魔のすむ音楽」(若林暢著、久野理恵子訳、音楽之友社)
    著者は2016年に亡くなったヴァイオリニスト。彼女がジュリアード音楽院留学中に書いた博士論文の翻訳です。表題に「悪魔」とあるものの、古代の「ダイモン」「サタン」、中世の「ルシフェル」ではなく、近代の悪魔「メフィストフェレス」が中心です。つまり、啓蒙主義的でトリッキーな悪魔です。バッハのカンタータ第19番に始まり、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」までが採り上げられ、悪魔がどのように表現されて来たか、具体的に楽譜から分析されます。「ディエス・イレ」が大好きな私としては、第4章「死のライトモチーフ『ディエス・イレ』」に興奮しました。本来は「死者のためのミサ曲」の一部であったはずが、ベルリオーズの「幻想交響曲」では、悪霊どもの揶揄と成り、スクリャーピンのピアノソナタ第9番に至っては「黒ミサ」と化するのです。
posted by 行人坂教会 at 23:18 | 牧師の書斎から