2019年10月21日

ともにある時間、ひとりで行く時間【Tコリント12:1〜12】

聖句「神の霊によって語る人は…、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(12:3)

1.《遅効性》 小学校2年生の時、日曜学校でペトロの信仰告白(あなたこそ、生ける神の子キリストです)を繰り返し学びました。高校2年生で受洗する際、「あなたにとってイエスとはどういう御方か?」と問われました。戦争体験を聴く会では、戦場でキリスト者として自身を保つことの厳しさを学びました。信仰者の決然たる言葉は、何十年も経ってから効き目の出て来るものです。

2.《しるし》 信仰の告白は聖霊の働きです。ブルーダーの『嵐の中の教会』は、1930年代、ナチス政権の成立によって「キリストのしるし」ならざるものに膝を屈めることを強いる残酷な支配が、ドイツの田舎町の教会にも押し寄せて来る様子を活写しています。ルターが「キリストのしるし」を見失ったローマ教会を批判したこと、教団が「戦責告白」を発表したことも思い出されます。揺るがせに、曖昧にしてはならないものが確かにあるのです。そんな「キリストのしるし」とは何か。消去法で私たちが選び取って行く他はありません。

3.《多様性》 教会は「キリストのしるし」を核として一致していながら、聖霊の働きの多様性、一人一人の違いが強調されているのです。恐らく、パウロは各人の顔を思い浮かべながら書いたはずです。信仰に踏み出す契機が多様であったのと同じように、人生や個性の違いをエンジョイすべきなのです。私たちの最期の時は、自分では保証できません。強い人も自力で支えられなくなります。そんな時、思わず助けを求める叫びを上げる、それも祈りなのです。戦後、東ドイツに留まり、不遇な生涯を送った神学者、シュニーヴィントは「自分が苦しくて祈ることが出来ない時には、私のために祈り給う方にしがみつく」と告白しています。たとえ「死の陰の谷」でも、主に出会うことが出来るのです。

佐治 恵

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から