2019年12月23日

救い主のまなざしは…?【ルカ1:46〜56】

聖句「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(1:47,48)

1.《神の母として》 カトリック教会では「聖母マリア」と称えますが、プロテスタント教会では「母マリア」と素っ気無く呼んでいます。素っ気無さには理由があります。古代から現代に至るまで、「神の母」「生神女」「パナギア」「天の元后」等と称号を付与され、「永久処女説」「無原罪の御宿り」「聖母の被昇天」と、あたかも女神ででもあるかのように祭り上げられてしまったのです。

2.《ありのままの》 宗教改革者たちは、聖書の証する信仰に忠実であろうとして、マリアを「栄光化」することを拒んだのです。高貴な人が存在する限り、卑賤な人も存在します。「マリア崇敬」のように特定の女性を崇拝することは、女性差別や女性軽侮と表裏一体です。マリアは特別な存在ではなかったと考える方が彼女自身の信仰告白「マグニフィカート」にも適っています。「身分の低い」は身分制や階級を言っているのではなく、「見すぼらしい境遇」「取るに足りない状態」の意味です。年端も行かない小娘であること、信仰や人生経験の不足を言っているのかも知れません。しかし「神の力は弱さの中に働く」のです。

3.《神の偉大な業》 「マリアの賛歌」の中心メッセージは「偉大なこと」です。ペンテコステの記事(使徒言行録2章11節)にもあります。キリストの誕生と教会の誕生に共通する語です。聖霊降臨の祝祭的な様子に比べると、如何にも地味です。実際、マリアは身寄りも宿も無く、祝福する人もいない中で、キリストを出産するのです。けれども、そんな貧しく、何の権力も持たない庶民の一人一人に「主は目を留められる」のです。世間の脚光が照らすのとは全く異なる所に「救い主の眼差し」が注がれているのです。挫折や後悔に満ちた私たちの人生ですが、思い通りに成った人生だけが祝福ではありません。私たちの人生が、他の誰かの人生よりも劣っている等ということはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から