2020年01月27日

羊の門【ヨハネ10:7〜18】

聖句「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(10:9)

1.《ジンギスカン》 北海道では、花見でも運動会でも、海水浴でも紅葉狩りでも、大学の新入生歓迎会でも、時と所を問わず、仲間が集まれば、ジンギスカンが始まります。東京にも「羊門」「喜羊門」等、ジンギスカン専門店があります。思えば、聖書はイエスさまを食べ物(パン、ワイン、魚、羊)に喩えています。命を繋ぐために無くてはならない食材(贖罪)なのかも知れません。

2.《聞き分けぬ羊》 「羊が命を受けるため」の「受ける」は「捉える」です。「囲いに入っていない他の羊もいる」の「いる」も「捉える」、「その羊をも導かなければならない」は「連れて行くために繋ぐ」です。聞き分けの悪い羊を捕まえて、囲いに誘導する羊飼いの重労働が偲ばれます。囲いの中の羊と「囲いに入っていない他の羊」を対比して、「ユダヤ人と異邦人」「従順な信者と未信者」等と単純に仕分けして読んでしまいがちです。しかし、両者は同じ羊の群れかも知れません。むしろ信者を「囲い込もう」とする教会が怖ろしいです。

3.《命も魂も捨て》 「囲い」は狼の群れや盗人(夜間に来る者)から守るための場に過ぎません。羊の群れは毎日そこから放牧地や水場に出て行き、羊飼いは群れを率いて、外に連れ出すのが務めです。「羊の門」もまた、閉じ込めるためではなく、出入りするために存在します。「教会の外に救い無し」等という方便に利用すべきではありません。羊が受ける「命/ゾーエー」は一般的な語ですが、イエスさまが「羊のために命を捨てる」と仰る時には「魂/プシュケー」という語を使って居られます。主は私たちのために、命も魂さえも投げ出すことを厭われなかったのです。神さまの愛を信頼して居られたが故に…。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から