2020年03月28日

キリスト教こんにゃく問答]]W「派遣」

1.伝道

イエス・キリストの福音を、未だ知らない人々、未だ信じていない人々に宣べ伝えて、その人たちを「信徒」とする教会の業を、キリスト教会では「伝道」、もしくは「宣教」と言います。世間で使われる「布教」という語は、教会では余り聞きません。

キリスト教会の「伝道、宣教」は、福音書巻末のイエスの御言葉に根拠が置かれています。

例えば「マタイによる福音書」であれば、28章18〜20節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。

これを福音派の教会では「大使命、大宣教命令/The Great Commission」と言います。英国人の宣教師にして「中国内陸伝道協会/China Inland Mission」の創設者、ジェームズ・ハドソン・テイラー(1835−1905年)が使い始めたと言われています。因みに「義和団の乱」(1900年)の時には、同協会所属の宣教師やその家族が、「義和団」のテロの標的にされて大勢虐殺されたそうです。この時、大人58人、子ども21人が殺害されて、カトリックの「殉教」のような扱いをされています。

ともかく、18〜19世紀には、欧米のプロテスタントの宣教団が数多く設立され、アジアやアフリカの各地に宣教師を派遣しました。明治維新と前後して日本にやって来た宣教師や信徒伝道者も、この世界的な運動の中にあったのです。これを「外国伝道、海外伝道/Foreign mission」と言います。それに対して、欧米国内にも教会生活から離脱した人々が大勢いましたが、彼らを対象とするのを「内国伝道/Home mission」と言いました。

他にも「伝道」の対象によって「盲人伝道/Mission to the blind」「青年伝道/Mission to young adults」「医療伝道/Ministering to the sick」「刑務所伝道/Prison evangelism」等という概念が生まれました。

また「伝道」の方法によって「文書伝道/Literature evangelism」「ラジオ伝道/Radio evangelism」「テレビ伝道/TV evangelism」等とも言われました。特に米国の「テレビ伝道師」は「テレヴァンジェリスト/Televangelist」とも呼ばれ、中には何十億円も稼ぐ人気者まで現われました。最近、IT業界などで、製品の性能やサービスを分かり易く解説する人のことを「エヴァンジェリスト」と呼ぶように成ったのも、ここから来ています。

2.宣教

日本語の「伝道」は「キリストの道(生き方、在り方)を伝える」という意味で、素晴らしい造語だと思います。しかしながら、「伝道」という語に付与されるイメージは、時代や状況に著しく影響を受けて、大きく変化して来ました。先程、わざわざ英語で併記したのは、そのことを見て頂くためです。

日本語では「伝道」と翻訳されている語にも「ミッション」「ミニスタリング」「エヴァジェリズム」がありました。「宣教団、伝道協会」は「ミッション」、「牧会、心のケア、看取り」まで含むと「ミニスタリング」、そして、メディアを利用した幅広い宣伝という場合には「エヴァンジェリズム」が使われているようです。

幕末のプロテスタント開教の際、日本に渡って来た宣教師たちの多くは米国人でした。これは、米国のリバイバル(信仰復興)運動が膨張して、海外へ、遂には太平洋の波涛を越えて日本にまで到達した結果です。

開教以来百数十年間、日本人のキリスト者たちは、米国キリスト教の圧倒的な影響を被りながらも、何とかして自分たちのキリスト教信仰を確立しようと模索して来ました。しかるに、アジア・太平洋戦争の敗戦後、良くも悪くも米国の影響は更に強まってしまいました。ですから、「伝道」についての観念やイメージもまた、米国の海外伝道団体のそれを受け継いでいるのです。その最大の問題点を1つだけ挙げるとすると、近代的な業績主義、膨張主義であることです。「教会を幾つ建てたか」「何人に洗礼を授けたか」「どれだけ教会を成長させたか」に焦点があるのです。これは、米国から海外に派遣される宣教師たちを、宣教団が評価する際の指標だったのです。

さて、そのような「成長主義」的イメージの付き纏う「伝道」という語に代えて、より聖書的な語(聖書に基づく語)として使われ始めたのが「宣教」という語です。「宣教」という語それ自体は、所謂「文語訳」から使われている語です。例えば「コリント人への前の書」1章21節「この故に神は宣教の愚かをもて、信ずる者を救ふを善しとし給へり」とあります。しかし「明治元訳聖書」の「歌林多前書」の同箇所を調べると「是故に神は傳道の愚かなるを以て信ずる者を救を善しとせり」でした。

1879年(明治12年)「元訳」は「傳道」ですが、1917年(大正6年)「改正訳」では「宣教」と変わるのです。これはネストレ版ギリシア語本文を底本としたことと関係があるのでしょうか。私は研究者ではないので、その辺りは不明です。ともかく、以来、戦後の「口語訳」(日本聖書協会訳)、「新共同訳」、「協会共同訳」、一貫して「宣教」が使われています。福音派の「新改訳」でも「宣教」なのです。

「宣教/ケーリュグマ」とは「伝える者(ケーリュクス)として、ニュースを公に宣言する」という意味です。特にキリスト教の「宣教」は「福音(エウアンゲリオン/良き知らせ)を公に宣言する」の意味です。私たちが日曜日の礼拝に集まり、福音の告知(祈りやメッセージ)を聞き、賛美を歌い、声を合わせて応答しているのは、「公の礼拝」を守り「福音の宣言」をしている訳ですから、まさしく「宣教」に他ならないのです。

3.派遣

「昔は『伝導師』と書いた時代もあったのです。まあ、最近の伝道師は『道を伝える』だけで『導かない』から」。

駆け出しの頃の思い出ですが、長年、信徒伝道者を為さっていた方から、そんな皮肉を言われたことがあります。「宣教」に「伝道」…。何と「伝導」もあったのです。「熱伝導」「電気伝導」ならぬ「信仰心の伝導」です。

それでは、私たちが愛する家族や友人を、何とかして信仰に招き入れたいと思っている、この気持ちは何と表現するべきでしょうか。今の私たちの時代状況の中で、果たして「伝道」「宣教」という語がフィットしているでしょうか。

一つの提案として、私は「派遣」を挙げます。先に「大使命、大伝道命令」として紹介した箇所ですが、「新共同訳」「協会共同訳」の小見出しは「弟子たちを派遣する」と成っています。最近では、これを「伝道命令」と言わず「派遣命令」と表現されるのです。「派遣」という語こそは「ミッション」の本来の意味です。

ローマ教会の司祭がミサの終わりに、会衆に告げる言葉「Ite,missa est/イテ・ミッサ・エスト/行きなさい、あなたがたは遣わされています」であり、「礼拝」を表わす「missa/ミサ」の語源も、ラテン語の動詞「mittere/送る」なのです。私たちが礼拝を終えた時、キリストによって誰かのもとへ遣わされようとしているのです。

そうなのです。この世界のどこかに、あなたの訪れ(音ずれ)を待っている人がいるのです。誰かが喜びの知らせを告げ、祝福の音色を響かせる時を待っている人がいるのです。あなたにとって、それは誰なのか、いつ出逢うのか、分かりませんが、自分が遣わされていることを自覚していなければ、きっと素通りしてしまうことに成るでしょう。


【会報「行人坂」No.259 2020年3月発行より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┗こんにゃく問答