2020年04月23日

教会の一大痛恨事

1.小さな世界

4月5日の「棕梠の主日」の礼拝までは、辛うじて守ることが出来ました。礼拝出席は13名でした。政府や自治体、感染症対策の専門家は、マスコミを通して「土日の不要不急の外出は控えるように」とのアピールを繰り返していましたので、3月以後、礼拝出席者は激減していたのです。特に持病のある方、高齢者は礼拝出席に不安を抱かざるを得ません。家族も心配して「礼拝に行くな」と言います。そして遂に4月7日、「緊急事態宣言」が発出されました。教会の諸集会を全て休止することを(役員と相談の上で)決断し、「教会からの重大なお知らせ」として書面で郵送し、現在に至ります。

しかしながら、教会から何の「音沙汰も無し」と言うのでは「福音」の名折れです。そこで、4月12日のイースターから毎週日曜日、行人坂教会HP上で、5分間礼拝「小さな世界/minutum mundum」という番組を音声配信しています。讃美歌と聖書朗読とメッセージと祈り、それで数分です。

通常の式順通りに「無会衆礼拝」を行ない、その模様(1時間以上)を「YouTube」「Line」「Zoom」「Skype」等を利用して、映像配信している教会もあります。所謂「オンライン礼拝」です。しかし、映像が余り良くないと聞きました。また、誰もいない礼拝堂や牧師の姿だけが映し出され、切り替えも無い映像など退屈極まりありません。

映像配信を行なうツールも準備も無かったというのが正直な所ですが、今回は「音声のみの配信」「数分間に限る」という選択をしました。メッセージの内容は、ノンクリスチャンも共に聴いて下さる事を前提にしました。実際に「未信者の御家族と聴いている」「数分なので一緒に聴いて貰える」という嬉しい反応を頂いています。

2.ぼっち礼拝

この5分間礼拝「小さな世界」、日曜日ごとに1本が配信されていますが、予め週日に2回分ずつ録音されたものです。でも、それとは別に、日曜日午前10時30分から、牧師は独り、礼拝堂で「独りぼっちの礼拝」を守っています。音声配信を利用するか否かは別として(実際、PCやスマホをお持ちでない方たちは利用できません)、この時間に合わせて、各家庭で祈りの時を持って下さっている信徒の方たちがいると信じているからです。

そして何より、日曜日の朝に、主の礼拝堂にあって、祈る者が誰一人いないという状況はあり得ないと思ったのです。神さまに申し訳が立ちません。そこで「独りぼっちの礼拝」を4月12日から始めました。いささか自嘲気味に「ぼっち礼拝」と呼んでいますが、どんな風に礼拝しているのか、具体的に申し上げましょう。

何の準備も無く、聖書と讃美歌だけを携えて、礼拝堂に行きます。@黙想を続けます。A讃美歌を数曲うたいます。Bその合間に聖書を読みます。C声に出して祈ります。E「主の祈り」やF「使徒信条」を唱えます。この7つの要素を順番も決めずに、聖霊の御導きのままに行なっています。

「フレンド派/基督友会/The Religious Society of Friends」、俗に言う「クエーカー/Quakers」の日曜礼拝を経験なさった方はお分かりに成ると思います。プログラムの無い礼拝です。牧師も司式者もいません。どちらかと言えば「沈黙の礼拝」です。「フレンド」の人たちは「内なる光/Inner Light」と言いますが、神の働きに導かれるままに、その礼拝の時を過ごします。私の「ぼっち礼拝」が「フレンド」の礼拝と違うのは、讃美歌をうたうという所だけでしょう。

私の「ぼっち礼拝」は30分と決めています。余り長い時間を続けると、次回に繋がらないと思うのです。毎回、心を集中させて新鮮な気持ちで礼拝するために、時間を限っているのです。勿論、時間を計っている訳では無くて、上の7要素をゆっくりと行なっていると、丁度30分くらいに成っているのです。

3.不要不急?

今回の「コロナ禍」で最も悲しく思ったのは「不要不急」という語でした。主日礼拝に出席する事は、信仰者、クリスチャンの暮らしにとって、何よりも「重要」なはずですが、それが「不要」とされてしまったのです。実際に、未信者の家族から礼拝に行くのを止められた信徒も大勢いらっしゃいます。そこに「不要不急」という看板(大義名分)が立ち塞がっていたはずです。

家族が「控えるように」言うのは、我が身を心配しての事とは分っているのですが、それでも「不要/重要では無い」と言われた事によって、私たちの信仰は深く傷付けられたのです。師岡カリーマ・エルサムニーが「東京新聞」のコラムに書いて居られました。イスラム教のどこかの国では、本来なら礼拝への呼び掛けであるべき「アザーン」の放送が、嗚咽しながら「モスクに来るな」「自宅で待機せよ」と為されたとの由。

その記事を読んだ時、私も胸が詰まりました。本当は、私自身も声を上げて、泣き出したいような気持ちだったのです。そんな思いを無理に押さえ込んで、理性的に装って、礼拝休止を決定したのでした。でも、本当は悲しかった。本当は、魂が引き裂かれるような気持ちだったのです。

個人的に「礼拝を休む」とか「礼拝をサボる」とか、または「礼拝を寝過ごした」とか、そんな事ではありません(そう言えば「アザーン」の一節には「礼拝は睡眠にまさる」というのがありましたっけ)。「公同の礼拝/Ecclesia Catholicus」を休止したのです。これ以上の痛恨事はありません。「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕うべし」(「ルカ傳福音書」4章8節)、この主の戒めを守れなかったのです。

牧師 朝日研一朗

【2020年5月の月報より】

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