2020年05月08日

散りゆく光の中で

1.散らされて

聖書学には「ディアスポラのユダヤ人」という語がよく出て来ます。一般には馴染みの薄い語ですが、「ディアスポラ/Diaspora」とは、ギリシア語で「散らされている者」という意味です。パレスチナ以外の土地に移り住んでいるユダヤ人を言います。

旧約続編「マカバイ記U」1章27節に「(主よ、)離散した同胞を集め、異邦人のもとで奴隷にされている者たちを解放し、虐げられ、疎まれている者たちにも心を配ってください」という祈りが綴られていますが、「七十人訳聖書/Septuaginta」(紀元前1世紀頃に完成したギリシア語「コイネー/ヘレニズム帝国の公用語」訳)には、この「離散した同胞」が「ディアスポラ」という語で表現されています。

アッシリア帝国、新バビロニア帝国による「捕囚」政策によって、メソポタミア地方に連れ去られた民がありました。また、王国の滅亡に際して、難民としてエジプトに逃れた者たちがナイル川上流やアレクサンドリアに移住したと言われています。ペルシア帝国やヘレニズム(ギリシア)帝国の時代には、シリアや小アジア(トルコ)各地、遠くカスピ海にまで移住させられた者たちもいました。そして、紀元1〜2世紀、ローマ帝国に対して、何度か叛乱を起こしたものの、その都度、鎮圧され、その挙句、遂に5世紀には、パレスチナから殆どのユダヤ人は追放されてしまったと言われています。

「使徒言行録」2章には「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」が、聖霊に満たされた弟子たちによって「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」と書かれています。あれこそ、巡礼にやって来た「ディアスポラのユダヤ人」に他なりません(中には、ユダヤ人ではない、異邦人からの改宗者もいたみたいですが…)。

2.集められて

しばしば、教会は「呼び集められた者の群れ」であると言われます。これは、旧約聖書に言われる「会衆」という語(ヘブライ語の「カーハール」)を読み砕いたものです。これが先程の「七十人訳聖書」では「エククレーシア/召集された市民の集会、議会」というギリシア語に翻訳され、そのまま、ラテン語に転訛されて「エックレーシア/ecclēsia」は「教会」という意味で使われるように成ったのです。

私たちの教会は「組合教会」、即ち、英国、米国の「会衆派」の流れを汲むものですが、「会衆派教会/Congregational Church」の「会衆/Congregation」という語もまた、ラテン語の「congregātiōnes/共に集まれし者」に由来します。動詞「con-gregō/コングレゴー/集める、結合する」⇒「grgēgō/グレーゴー/呼び集める、召集する」に至るのです。

それ故に「会衆」あっての「教会」と申すことが出来るでしょう。従って「会衆」不在の状態、「集会」を呼び掛けることの困難な状況は、教会にとって「死」を意味します。カトリック教会の「非公開ミサ」(一般信徒には閉じられたまま、聖職者のみで聖体祭儀を行なう)、プロテスタント教会の「無会衆礼拝」(教職のみで礼拝を行ない、それをネット配信する)の試みを頭から否定するつもりはありませんが、それを「公同の礼拝」とするのは、残念ながら「嘘も方便」の域を出ません。

この点に関しては、言い逃れ出来ません。「呼び集められた群れ」、即ち「会衆」が存在しない今、教会は死んだも同然、もはや死に体なのです。私たちの教会は勿論、どんな大規模教会も(聖イグナチオ教会であれ、聖マリア大聖堂・関口教会であれ、ルーテル市ヶ谷教会であれ、聖公会聖アンデレ教会であれ)、礼拝を休止している教会は死んだのです。しかしながら、会衆の誰か、あるいは、その家族や友人の誰かを死の危険に晒すことを潔しとはしなかったのです。その意味では、主の十字架と同じく「死に渡された」と言えましょう。

3.散り行く光

ところで、私たちが「教会」として「呼び集められる」のは、再び「散らされる」ためだと主張する人もいます。現代を生きるキリスト者は「散らされる」という語を、より積極的な意味で捉え直そうとしています。

例えば、「使徒言行録」には、「ステファノの殉教」に端を発する、新たな宣教の展開が描かれています。8章1節「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」のですが、4節「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」と続きます。エルサレム教会の弾圧によって信徒たちが「散らされて行った」結果、サマリアでの宣教が始まるのです。

私たちの教会は「迫害、弾圧」を受けている訳ではありませんが、教会というものは、そもそも「呼び集められ」、また「散らされて行く」ものだと言えるのです。そこには「宣教」(主の御言葉、主の御心を宣べ伝える)という目的があるのです。すると、すかさず「このウイルス禍こそは、家族伝道の絶好のチャンスです!」と、能天気な牧師なら言うでしょう。ドナルド・トランプ並みの(かなり危険な)楽天的エゴイズムです。

迫害と弾圧は、恐らく、当時の「エルサレム原始教会/Primitive Church of Jersalem」に、破滅と言っても良い程の打撃を与えたと思うのです。エピファニオス(サラミスの主教)によると、4世紀初頭まで残存していたそうですが、次第に衰退して行ったのに違いありません。しかし、そこから「散って行った人々」が新しい教会を作って行ったのです。

それは丁度、倒れて朽ち行く樹木を苗床として、そこから新しい芽が生まれていったようなことでは無かったでしょうか。自分が肥え太るのではなく、自分自身が肥やしに成って、新芽を育てる、そのような大きな循環(自然サイクル)を見る思いがします。

牧師 朝日研一朗

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など