2020年08月24日

我々はどこにいるのか【創世記3:1〜13】

聖句「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(3:8,9)

1.《方向音痴》 私は方向音痴です。自分が今どこにいるのかを見失い、分かれ道や曲がり角を間違えて、とんでもない所に行ってしまいます。カーナビが付いて以後も遠回りをしてしまいます。しかし『相棒』の水谷豊、歌手のGackt、野球のイチロー選手、「2時間ドラマの女王」片平なぎさ等の方向音痴ぶりも有名です。自分の立ち位置を見失うことは、人生の大きなテーマでもあります。

2.《悲憤梗概》 神さまはアダムに「あなたはどこに?」と尋ねられました。神さまが見失ったのではありません。アダムは神さまとの約束を破り、信頼を裏切ることで、関係が失われてしまったのです。刑事が犯罪者の隠れ家に踏み込もうとしているのではありません。アダムの隠れている所等、神は先刻御承知です。ヘブライ語の「どこに?/アイェーカー」は「哀歌」冒頭の「何故に?/ああ哀しいかな!/エーカー」と全く同じ4文字から成っています。主なる神は、アダムが丸裸にされて、所在無く隠れている姿、そんな哀れな人間の姿を見て「どうして、こんな事に…」と嘆いて居られるのです。

3.《永遠の命》 呼び掛けに応えて、アダムの方から姿を現わして欲しいという願いが込められているのです。アダムが食べてしまった「善悪の知識の木」とは「命の木」との対応から「死の木」ではないでしょうか。「秘密の知恵」は神の御もとにあるべきだと「申命記」は言います(29章28節)。「エデンの園」では、判断を下すのは神さまでした。しかし、人間が自分勝手に善悪の判断を下すようになってしまったのです。それは数多の死と災いをもたらしています。しかし、後戻りは出来ません。イエスさまは、神の愛の呼び掛けに「私はここにいます」と応えることの中に「永遠の命」に至る道があると示されました。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:55 | 毎週の講壇から