2020年09月14日

羊たちの沈黙【ルカ 15:1〜7】

聖句「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)

1.《つくも》 日本では「九十九」と書いて「つくも」と読ませます。「百(もも)に次ぐ」から「次ぐ百(もも)」、訛って「つくも」です。「つくもがみ」は「白髪」の意味です。「伊勢物語」でも「もゝとせに ひとゝせ足らぬ つくもがみ…」の歌が詠まれています。「百歳に1歳足りないような白髪の老婆が…」の意味です。古道具も長く放置していると「付喪神」という妖怪になり百鬼夜行をします。

2.《九十九》 「九十九」は「百」を前提にしています。イエスさまの譬え話では「百匹の羊」は百匹一財産、「十枚のドラクメ銀貨」も「番町皿屋敷」と同じく10枚1セットの箪笥預金です。「完全な価値」なのです。1つでも欠けたら価値が失われてしまうのです。聖数の「7」に1つ足りない「6」は不完全な数字、その三連荘の「666」は神に逆らう「獣の数字」とされています。「過ぎたるは及ばざるが如し」で、聖数「12」に1つ多い「13」も不吉な数字です。「放蕩息子」の譬え話でも、「息子は2人いるから兄弟の1人が失われても構わない」等ということは断じてありません。失われたら耐え難い苦しみ、それが親心というものです。

3.《喜ぶ友》 「1匹対99匹」の対立図式で読むべきではありません。それでは「トロリー問題」「ボート問題」のように、机上の道徳的ジレンマに陥ってしまいます。イエスさまは人間の判断や計算、道徳を言って居られるのではありません。神の摂理(御心は何か)について語って居られます。それは「天の喜び」です。神さまがそれを喜ばれるのです。しかし、私たちは「正しい人」である自分(九十九匹の羊、放蕩息子の兄)が置き去りにされているかのように感じるのです。他方、失われた羊を捜し求めて発見した人と「一緒に喜ぶ人たち」が登場します。呼び集められた「友だち、隣人」が共に喜び、祝宴に与るのです。妬んだり羨んだり、拗ねたり捻くれたりせず「神の友」として、一緒に喜びましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から