2020年10月16日

旭日亭菜単(続き)その61

  • 「生きるよすがとしての神話」(ジョーゼフ・キャンベル著、飛田茂雄・古川奈々子・武舎るみ訳、角川ソフィア文庫)
    カウンターカルチャー華やかなりし1970年代の講演を集めたものです。これは米国というお国柄故かと思われますが、頑迷な聖書主義や形骸化した既成のキリスト教会に対する批判が垣間見られます。ごく真っ当な意見です。他方、近代的な聖書学の成果を踏まえつつ、神話学の立場からユニークな援用をすることも怠りません(新約外典「トマスによる福音書」を重視しています)。もしも著者ならば、数多のカルトが跳梁跋扈し、世界中で宗教者が異教徒排斥と不寛容の元凶と成っている、21世紀現在の宗教を取り巻く状況を如何に分析するでしょうか。1つ気に成るのは、ユダヤ教に対する彼自身が抱く嫌悪感みたいなものが行間から滲み出ている点です(ユングにも共通する匂いがあります)。それでも、第8章の「愛の神話」は大変に勉強に成りました。トルヴァドール(吟遊詩人)から説き起こして「天国から閉め出されても地獄で是認される」「たとえ地獄に堕ちても、愛する者たちにとっては幸せ」と論ずる辺り、とても感動的です。
  • 「拝む女」(高橋葉介作、角川書店)
    怪談文芸専門誌「幽」に連載されていた作品を集めたものです。忘れもしません、1980年に「マンガ少年」(朝日ソノラマ)の「ヨウスケの奇妙な世界」と出会った私にとって、ここに登場する妖怪や死霊たち(主として女性)は、恥ずかしながら、初恋の女性との再会みたいなもんです。連載誌が成人読者を対象としているため、エロとグロの合体したラブクラフト的世界が展開されます。葉介と言えば「面相筆」(写経に使う)なのですが、「蛇女の絵」「森を駆ける」等はクロッキー画のようで、実に新鮮でした。
  • 「ゴールデンカムイ」第22〜23巻(野田サトル作、集英社)
    鶴見中尉以下第七師団からの杉元・アシリパ一行の逃走劇です。椅子取りゲームのように各グループのメンバーが入れ替わります。第225話「貧民窟」の扉絵は「札幌美以(メソジスト)教会」、現在の日本基督教団札幌教会の会堂(札幌軟石を使った石造り、有形文化財)です。よく北海教区や札幌地区の集会に会場提供をして頂いたもんです。大東流合気柔術の武田惣角(合気道の創始者、植芝盛平の師匠)が鶴見中尉の武術の師匠として登場します。明治後半、武田は北海道を中心に活動していたので、今後も登場する予感がします。その武田相手に「兵士の攻撃性を真に発揮させるのは愛だ」と主張する鶴見のカルトぶり、それに対して、谷垣とインカラマッを救うために自らの命を投げ出す家永、更には、追っ手の鯉登少尉と月島軍曹がお産を手伝う展開(ジョン・フォードの「三人の名付親」でしょう)を対峙させる作話術、スタッフの並々ならぬ力量を感じます。
  • 「プリニウス」第10〜11巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    「コロナ禍」でマンガ業界は止まっていると思い込んでいて、続刊されているのに気づきませんでした。ネロの変態性欲の犠牲になって孕まされた、女奴隷プラウティナが引き取られて、プリニウスの留守宅で働くことになったのは良かった(「因果は巡る」の温情的処置です)。従来「クォ・ワディス」等で、ネロの従順な腰巾着の役割しか与えられていなかったティゲリヌスを、ネロ失脚のキーパーソンに仕立てたのは大したものです。パルミュラに到達した一行が、後漢の商人やガンダーラの出家と異文化交流する場面が楽しい(もう既に星野宣之が「砂漠の女王」でやってるけど)。
  • 「映画と黙示録」(岡田温司著、みすず書房)
    私たちは「世界の終わり」のヴィジョンに何を求めているのでしょうか。映画に材を取ることで、その点を著者は探求しています。「黙示録」に象徴される終末観は、ユダヤ・キリスト教のオリジナルではなく、むしろゾロアスター教やミトラ教、マニ教の影響が大きいのですが、宗旨を超えて受け継がれ、今も世俗の娯楽(小説、映画、ゲーム)として命脈を保っています。こうして見ると、人間の精神にとって無くてはならぬ慰安なのでしょう。「核戦争もの」「地球滅亡もの」のサイファイのみならず、パゾリーニやベルイマン、タルコフスキー等のアート系作品、フィルム・ノワール(私も「キッスで殺せ!」は大スキ)まで目配りする著者の薀蓄に圧倒されます。是非とも補遺、続編として日本映画編を書いて頂きたい。「世界大戦争」「日本沈没」「ノストラダムスの大予言」等のカタストロフ映画、「吸血鬼ゴケミドロ」、押井守や黒沢清の諸作、「平成ガメラ」「エヴァンゲリオン」シリーズ等を、どのように著者が料理されるか、大いに期待しています。
posted by 行人坂教会 at 23:13 | 牧師の書斎から