2020年11月16日

母さん、もう泣かないで【ルカ7:11〜17】

聖句「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(7:13)

1.《ナオミの心》 私が最初に赴任した大阪の某教会には、専業主婦と職業婦人の婦人会がありました。「職業婦人」と言えば、何か華々しく思われるかも知れませんが、終戦後の独身女性、離婚経験者、早くに連れ合いと死別した女性たちで構成されていました。「結婚が女性の幸せ」との風潮が残っていて、彼女たち自身も、何となく肩身の狭い思いをされていたのです。やがて若手女性が加わりましたが、先輩たちの思いを受け継いで、会の名前を「ナオミ」と変更されたのです。

2.《寡婦の悲嘆》 「ナオミ」は「私の喜び」という意味ですが、「ルツ記」の物語の故に寡婦を象徴する名前になりました。ヘブライ語の「寡婦」はアラビア語の「痛みを感じる」という語との関連が指摘されています。ギリシア語は「奪われて孤独である」の意味です。ナインの町の門から葬列が出ようとしていました。寡婦の女性が先導して、担架には彼女の独り息子の遺体が載せられています。夫に先立たれたばかりか、独り息子にまで先立たれたのです。息子は二十歳前後、あるいはハイティーンだったかも知れません。町の門に入ろうとして、その葬列に遭遇したイエスさまは「五臓六腑(スプランクノン)を震わせる」程に、この母親の悲しみに共鳴されました。それこそがキリストの「憐れみ」です。

3.《生死の交錯》 ここに興味深いコントラストがあります。葬列は町の外に出ようとしていて、イエスさま一行は町の中に入ろうとしていたのです。「出る」と「入る」は町の城門の出入り、旅立ちと帰りですが、同時に私たちの誕生と死を意味しています(詩編121編8節)。私たちの生と死とが交錯する所に、主は立たれるのです。命の主イエスが死者の葬列を押し留め、若者を復活させた福音と読むことも出来ます。しかし、現実はもう少し複雑です。主に蘇らせて貰った若者も再び死んだのです。信仰者であっても死は恐ろしいし、愛する者を失えば絶望して生きる意欲も失うのです。しかし、そんな不信仰な私たちの所に、キリストの方から訪ねて下さるのです。たとえ、私たちの人生が死に向かう歩みであるとしても、復活の命を湛えた主、イエスさまが訪ねて来て下さるのです。

朝日研一朗牧師

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