2021年03月29日

ぞうきんのこころ【ヨハネ13:1〜11】

聖句「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)

1.《洗足と千束》 大田区には「千束」と「洗足」の地名が混在しています。その昔この地域は寺領だったので「稲千本分」の年貢が免ぜられていたので「千束」だったそうです。その後、日蓮が旅の途中、池で足を洗った伝説が加わり「洗足」の字が当てられたとか。ところが、1926年、この地に前田若尾が「洗足高等女学校」というキリスト主義学校を設立したのです。勿論、イエスさまの「洗足」の御業を建学の精神に掲げて校名にしたのでした。

2.《跣足と清貧》 カトリック教会には「跣足(せんそく)」と銘打った修道会があります。これは、アッシジのフランシスコとキアラ(クララ)が古代の使徒たちに倣って「裸足」で旅をしたことから来ています。それは清貧の実践でしたが、同時に、贅沢三昧を極めたローマ教会の内部改革を促す運動でもありました。因みに、日本では「清貧」と言われますが、ラテン語の「パウペルタース/貧しさ」には、「清い」等という自己主張はありません。そうではなくて、ただ単に「キリストは貧しさと苦しみの中に共に居られる」という信念です。安土桃山時代、フランシスコ会修道士が初めて入って来た時、貧しさを旨とする姿を見て、キリシタンの信仰に入った庶民も多かったと言われています。

3.《足を洗う主》 過越祭の食事(最後の晩餐)の直前、主は弟子たちの足を一人一人洗われました。人に仕える姿を身をもって示された等という教育実践のようなことではなく、洗足の御業そのものがキリストの御心そのものだったのです。確かに「大地/フムス」に触れる足は、私たちが地上の存在(この世の者)であるという限界を常に教えてくれます。その足を洗う主の御姿は「謙遜/フムス」そのものです。ペトロとの対話に気を取られますが、ここで最も焦点が当てられるべきは、イスカリオテのユダの存在です。主は裏切る者の足も洗われたのです。イエスさまは既に悪魔に取り憑かれている者をも「主の晩餐」に招かれているのです。そして手ずから聖餐のパンを差し出されたのです(直接、彼の口に入れたのかも知れません)。これが「世にある彼自身の弟子たちを愛して」愛し抜かれたという事柄の真骨頂なのです。裏切ったり、見捨てたり、逃げ出したり、否認したり、信じなかったりする弟子たちであっても、イエスさまの魂の一部なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から