2022年01月24日

天から火なんか降らせない【ルカ9:51〜56】

聖句「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。」(9:54)

1.《雷神が最強》 人体の自然発火現象は古代から目撃されています。落雷の直撃を受ける異常な死と共に、古代社会では天罰、祟りとして恐れられて来ました。ゼウスやユーピテル、インドラ(帝釈天)が神々の王とされるのも、雷を司る最強の神と考えられていたからです。旧約聖書のバアルもヤハウェも同じです。菅原道真が「天神さん」と崇められるのも同じ事情によります。でも、古代にも、ルクレティウスのように「天罰でも祟りでも無い」と言い切った人がいたのです。

2.《人間の燔祭》 弟子の言う「天から火を降らせて」云々の台詞には前提があります。「列王記下」1章の預言者エリヤの物語です。イスラエル王国のアハズヤ王がバアルに病気の治癒を祈願しようとしたのを、エリヤが批判します。王はエリヤを逮捕しようと軍隊を派兵しますが。天から火が降って来て、全員が焼き殺されてしまうのです。これを「人間の燔祭」と言います。3度目の派兵で、漸くエリヤは自分から謁見に出向きます。昔話や御伽噺で、紋切り型の台詞の遣り取りが3回繰り返される「せり上がり」と呼ばれる技法です。次の展開に移るためのエネルギーを蓄積したり、子どもたちが成長して行くリズムを表わしているとも言われます。ともかく「天から火」はエリヤの故事に因んでいるのです。

3.《十字架の道》 ここにこそ、旧約と新約との断絶があります。イエスさまは平気で人を殺しまくる旧約の預言者たちとは違うのです。村人から逗留を拒否されても、先に進もうとされるだけです。むしろ、激する弟子たちを戒められるのです。旧約がスペクタクルだとすると、新約は大人向けの人間ドラマです。サマリアの村人がイエス一行を拒否したのは、ゲリジム山を無視して、エルサレムを目指して居られると知ったからです。まさか、イエスさまがエルサレムで十字架に掛けられる等とは知る由もありません。永井隆の「浦上燔祭説」も思い出されます。「神の摂理」「試練」「小羊の燔祭」等という意味不明な美辞麗句を使うのは危険な兆候です。私たちの主は「天の火」を弄んだり、力を誇示したり、怨みを晴らしたり為さいません。ただ、十字架の道を進んで行かれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から