2022年02月07日

道をそれたからこそ【出エジプト記3:1〜6】

聖句「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。」(3:4)

1.《燃える柴》 日本の昔話では「お爺さんが山に柴刈り」に行きますが、今や庭の「芝刈り」しか想像できませんが、昔の人は雑木の枝払い(藪払い)をして、燃料に利用したのです。ですから、モーセが「燃える柴」を見たと言っても、燃えない物が燃えるならいざ知らず、燃やす物が燃えていたのですから、特に奇異な感じがしません。科学万能主義の19世紀には、自然発火現象、もしくは、アカシアに寄生するヤドリギが一斉に赤い花を咲かせた等と解釈されました。

2.《啓示の心》 神が何等かのメッセージを人間に伝えようと為さる事を「啓示」と言います。漢字は「戸と口を開いて示すこと」、ラテン語は「露わにすること」です。勿論、示されるのは神の御心(御計画)です。エジプトで奴隷として苦しめられている民の苦しみを見、泣き叫ぶ声を聞き、痛みを身をもって知ったと、神さまは言われます。自分の子どもがイジメに遭っていたのを知って、胸が張り裂けそうになっている親の気持ちと同じです。これが「啓示の心」です。主は「モーセを出エジプトの指導者として遣わす」と仰いますが、モーセ本人は「燃える柴」を見物しようと脇道に逸れたばかりに、神さまに捕まってしまったのです。どうして、安定した暮らしと愛する家族を置いて行かねばならないのでしょう。

3.《低き所に》 ふとした出来心から道草をしたことが、モーセの人生を大きく変えてしまったのです。イスラエルの民やエジプト王国の運命までも変えてしまうのです。エジプトを逃げて来たモーセは、今更、戻りたくはありません。それ故、彼は神の召命を拒もうとするのです。有能さだけなら、姉のミリアム、兄のアロンの方が上でした。しかし、神の選びの条件は「驕りの無いこと」です。神の啓示は小さな出来事に顕われ、自らを小さい者と心得ている人に示されるのです。ユダヤ教の伝承では、柴(茨の灌木)は最も低い木だそうです。そこから神が語られたということは、この世で最も貶められた人たちの所まで、進んで降りて来られたことを意味すると考えられています。脇道、寄り道、回り道、道草、そんなヨタヨタした歩みこそが、実は、神の民に相応しいのかも知れません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:52 | 毎週の講壇から