2022年04月04日

祈りから始める【マルコ14:32〜42】

主は受難を心底苦しまれました。普段なら一人で祈られるのに、ペトロら三人を共にされたほどです。長い時間、祈りを通してご自分の望みと神の御心とが一致するまで格闘されました。しかし心が決まって戻ってくると、直面するのは眠りこける弟子たちでした。それを見て主は「目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言い残し再び祈りに戻られました

▼この「心」は「霊」、「燃える」は「前進する」とも訳されます。霊が神の使命に向けて前進しようとしても、私たちの罪はそれに抗う。主はその相克を弟子たちに見、ご自分もその苦しみを経験してくださり、三度の祈りを経て「もうこれでいい(「支払い済み」の意)」とおっしゃいました。祈れない弟子たちの分も、主は執りなして祈られたということです

▼私たちは日々の行動について祈らずに済ませ、自分の力でどうにかしていると思っています。しかし「祈らない」のは、神の恵みを忘れ自分の力により頼んでいることになりかねません。そのような誘惑に陥らないために、また罪によって的外れの方向にならないように「祈っていなさい」と主は教えました。拙い祈り、間違えた祈りであっても、祈った方がよい。なぜなら祈り方を知らない私たちを神の霊が言葉に表せないうめきをもって執り成し(ローマ8:26)、自分の願望から次第に御心を尋ねる祈りへと導いてくださるからです

▼以前、旅先でたまたま出会った自衛隊高官の方が、子どもの頃に教会学校で「主の祈り」を教わり、やっと覚えられた時の嬉しさを話してくれました。そして、その後教会を離れそれきりなのに、人命がかかった重大な決断をする際に目をつぶると、必ず「天にまします我らの父よ・・」の祈りが湧き上がってくる、そして心がシンと静まり決断を下すのだと。霊の働きが具体的に迫ってくる思いがしました。主の執りなしの祈りは、今も私たちに生きて働いているのです

▼この受難節、主ご自身がどんなに祈りを必要とされたかを覚え、私たちも祈りを深める時としたいものです。行人坂教会がいよいよ新しい時を迎えようとする今、すべてを霊に明け渡して共に熱心に祈ることから始めましょう。

キスト岡崎さゆ里宣教師(RCA)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の講壇から