2022年09月19日

貧しいやもめの献金から見えてくる世界【マルコ12:41〜44】

テキストは神殿における献金の場面です。教会ではこのテキストを、献金の意味を考えたり奨励したりする場合によく用います。そうした直接的な引用理解はもちろん可能ですが、私はこの話を平和を考える際の価値観の問題として捉えました。イエスさまのお言葉には、「受け身の生き方ではダメだ」という意味があるのではないでしょうか。教会には一つの出来上がった空気があります。聖書を読み、礼拝を守り、祈る……そんな空気です。私はそれをとても大切なことだと考えますが、その中にはエアーポケットのような落とし穴もあるように思えてなりません。私たちキリスト者は社会的課題に何ができるかということにあまり注意を払ってこなかったのではないでしょうか。

テキストには、キリスト者への価値観への問題提起があるように思います。イエスさまは小さなレプトン銅貨2枚を献げた貧しい女性を指して、「誰よりもたくさん入れた」と言われました。十円玉2枚といったところでしょうか。この価値を、イエスさまは何よりも大きいと断定されたのです。貧しい女性は自分の持っているものをすべて献げました。

イエスさまが示された価値観は、すべて捧げることをもって標準とするという判断基準です。十円より千円は大きいという捉え方とはまったく違う標準を示しながら話が進みます。この標準こそがキリスト者が平和をつくり出す原動力です。この視座に立たないと、キリスト者の前進は覚束ないのです。持ち物をすべて捧げるような生き方をしたキリスト者は、マザーテレサのように現代でもたくさんいます。私たちもそういう生き方ができるか、それはあらかじめ分かりませんが、鍵は普段の信仰生活にあるようです。イエスさまは貧しい女性のそれを見抜いておられたのです。

聖餐式では、自分を神さまに聖なる供え物として捧げることを確認しますが、献金の精神はそういうことです。献金の捧げ方一つで、イエスさまにはその人の生き方が見えるのです。私たちは貧しいやもめの行為を通して、イエスさまから問いを受けています。イエスさまの問いに誠実に応えていく人間でありたいものです。 

秋葉正二牧師

posted by 行人坂教会 at 22:16 | 毎週の講壇から