多くの人にとり宗教行為とは「参拝」を意味していて、日本でも正月にはたくさんの人が初詣に詰めかけます。私たちクリスチャンも教会に集い、礼拝をささげます。しかしそれは聖書の御言葉に聞き、共に御言葉に立って生きる共同体を作ることを目指しているからです。聖書とは何でしょう。「人生の取説」とも言えますが、それだけではありません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益 」(テモテへの手紙二3:16)なのです。
主イエスは様々なたとえを通して人々に御言葉を伝えました。今日の箇所は有名な山上の垂訓の最後にお話しされたことです。「わたしのこれらの言葉を聞いて」というのは、これまでのイエスの教えを聞いていたはずの人々に二種類の応答があるだろうと予測しているのです。一人は岩の上に家を建て、一人は砂の上に家を建てたとあります。「岩の上に家を建てた人」とは、イエスの言葉を聞いてそれに従い、日常の様々な出来事の中でその言葉を自分の生き方に生かして行動した人です。方や「砂の上に家を建てた人」は、イエスの言葉を聞いたけれども日常の生活の中で目先の出来事にとらわれて、イエスの言葉が身につくことはなかった人です。
二人とも、晴れの日にはなんの問題もありませんでした。つまり、順風満帆なとき、自分の力でどうにかできる時は、大丈夫でした。しかし、人生には思いもかけない困難や苦難も起きます。それが人生の「嵐」です。自分の力では知恵では乗り越えられないようなことが起きた時、何を頼りにすればよいのでしょうか。御言葉を実践して生きてきた人は、「誤りを正し、義に導く訓練」を受けてきたため、何が起きてもしっかりとした考え方・生き方の土台があります。聖書の御言葉は素晴らしい。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」( 詩編 19:11)とある通りなのです。
キスト岡崎エイブラハム宣教師