2010年10月17日

こんにゃく問答Z 「メシア」

1.救世主

ふと考えてみると、私たちは「救世主」等という日本語を、余り使うことがありません。礼拝の時においても、日常生活の中でも、意外なくらいに「救世主」等とは言いません。牧師として、キリストの救いについてのメッセージを語る務めに就いている私自身にしてからが、殆ど使ったことがないのです。そう言えば、マンガやアニメで有名な『北斗の拳』には「世紀末救世主伝説」という仰々しい副題が添えられていたなと、思い出すのが関の山でした。実際に、私たちがお祈りや信仰の対話の中で使っているのは、「主イエスさま」とか「キリスト・イエス」とかです。

「救世主」は「メシア」という語に当てられた訳語です。「メシア」はヘブル語の「油注がれた者」です。イスラエルの王が任職の際に、油を頭から注がれた儀式から来ています。以前の聖書では「受膏者」という訳語もありました。私はこの文字を見る度に、こめかみに絆創膏を貼ったお婆さんを思い出して、片腹を痛くしたものでした。ともかく、この「メシア」のギリシア語訳が「キリスト」です。私たち、何しろ「キリスト教徒」ですから、当然「キリスト」という語に対しては、人並み以上に親近感を抱いているのですが、改まって「救世主」と言われると、却って「ご浄霊」で御馴染み「世界救世教」を思い出してしまう有様です。

戯れにインターネットに「救世主」と打ち込んでみると、出るわ、出るわ、世の中には、こんなに数多くの「救世主」があったかと驚きます。先ずは定番、キリスト教の「救世主」、新興宗教の「救世主」、怪しいオカルト系の「救世主」が飛び出します。続いて、「マネーの救世主」「印刷会社さんの救世主」「占い館救世主」「保険救世主」「飲み処救世主」「あなたも『ハロプロ』の救世主に」・・・。

何より驚いたのは、民主党の鳩山由紀夫元首相のホームページです。「救世主」という文字が浮かび上がり、アニメが始まるのです。スーパーマンの格好をした鳩山が荒廃した都市に降り立ちます。そこに「エージェント小泉」という名札を付けた「悪の怪人」が登場して迎撃しますが、鳩山がこれを難なく撃退、「友愛」の枝葉をくわえた鳩と成って、空高く飛んで行きます。どうやら、これは映画『マトリックス』のパロディのようです。

2.救い主

残念ながら、日本社会では既に、このように胡散臭い使われ方をしている語なのです。この語が余りにも人口に膾炙したが故に、教会で使われなくなったのか、それとも、教会で使われなかったから、この語が堕落したのか、それは私にも分かりません。しかし、私たちが「救世主」という語を積極的に使わないのも道理かと思いました。

聖書に目を転じてみましょう。前の口語訳である「協会訳」でも、福音派の教会で使われている「新改訳」でも、「新共同訳」でも、一貫して「救い主」という日本語が使われています。昔の「文語訳」ですら「救主」に「すくひぬし」とルビが振ってあります。「救世主」という語を使っているのは、私の調べたところ、難解な漢字熟語の専門用語を多用する日本正教会(ハリストス教会)くらいでした。

つまり、イエスさまは「何を、あるいは誰を、救うためにいらっしやったか」ということなのですが、「救い主」という語は、敢えて、その点を限定しない訳語なのです。他方、「救世主」と言えば、「世を救うため」と言い切ってしまっているのです。しかるに、折角、そのように明言しているにもかかわらず、「マネー」や「ハロプロ」の「救世主」等と不正使用されてしまうのですから、「救世主」としては不本意極まりないことでしょう。

目的語が曖昧な「救い主」という語が、私自身は大好きです。他にも、「聖霊」を指す「助け主」「慰め主」という語もありましたが、こちらは、「新共同訳」で「弁護者」等という味も素っ気もない訳語に変えられてしまいました。これでは、どこかの法律相談事務所に行って、依頼料をお支払いしなくてはいけないような気分です。

さて、なぜ目的語が明確ではないのが良いのでしょうか。それは私が日本語を母語として育った人間だからなのでしょう。「世」等という余計な文字が付いていない分、一瞬にして、これこそ「私を救って下さる主」なのだと、勝手に脳細胞が指示するのです。そして、その直感はあながち間違ってはいないのです。その事実に出会って、懺悔の涙と共に、感謝と讃美が生まれる、それがキリスト教信仰というものなのです。

3.私の主

神学部に入学した早々の失敗談です。私の同級生には、牧師の息子や教会高校生会の生え抜きのような「教会青年」が数多くいました。彼らは「文献批判的な」聖書の読解とその方法こそが、神学することだと、入学当初から知っていたのです。ところが、私と来たら、高校時代、悪魔学やオカルトの本ばかりに耽溺していて、聖書学のことは何も知りませんでした。何か魔法の呪文でも教えてくれるのではないかと勘違いして、神学部に入ってしまっていたのです。従って、ドイツの新約聖書学者ブルトマンによる「史的イエス研究」とか「非神話化理論」を捲くし立てる同級生の議論にも、全く付いていくことが出来ませんでした。

「史的イエス」とは、新約聖書本文を批判的に分析することにより、歴史に生きて実在したイエスという人物、もしくは、その弟子たちの生活と実存、思想と信仰とを炙り出す研究です。その手続きとして「非神話化」、当時の神話的世界像を削ぎ落として、尚、現代に通じる宣教の真理を探るという作業を行なう訳です。

神学について全く無知であった当時の私には、「史的イエス」と聞いても、「詩的イエス」か「私的イエス」という語しか浮かんで来ませんでした。恐らく、仏文科に行って、マラルメでも専攻するべきだったのでしょう。「非神話化」と言われても、当時、フレイザーの『金枝篇」を愛読していた私は「神話の持つダイナミズムこそ真実だ」と力説してしまう有様です,これでは、話が噛み合うはずもありません、。

このように、18歳の時の「恥ずかしい初体験」を告白したのは他でもありません(失敗したコミュニケーションは、いつどんな場合にも恥ずかしいものです)。そんなにして「史的イエス」を追求しなくても、「私的イエス」「私のイエス」を探し求めて行くことでも、基本的に間違ってはいなかったという確信が、今あるからです

勿論、「現代」に対して責任を負う牧師ですから、今更、古代や中世と同じような聖書の読み方をして良いはずはありません。例えば、聖書の性差別や民族差別に対して無自覚では困ります。逐語霊感説の立場で読むことに拘る余り、テキストの矛盾を勝手に整合化してはいけません、あるいは、この二千年間にキリスト教界が犯して来た(そして、今現在も引き継がれているであろう)数多くの罪悪に対して目を閉ざしてしまうことも、罪過の上塗りでしかありません。

そのためには、やはり、何としても「文献批判的に」聖書を読まなくてはなりません。しかしながら、聖書を書き残した人たちがそうであるように、また、聖書の中に描かれた人たちがそうであるように、今現在、聖書を読む私たちもまた、救いを求める一人の人間、神の憐れみと赦しを必要とする人間であることもまた、紛れもない事実なのです。私の言う「私的イエス/私のイエス」とは、勝手に「私が思い描いた」イエスのイメージという意味ではありません。「私を救って下さる」であろうイエスさまなのです。その御方の御心を探り求めることが、私たちの礼拝であり、信仰生活であろうと思うのです。イエスさまは何と思っていらっしゃるだろうか、イエスさまとはどんな御方なのだろうか、本当のところ、それは誰にも分からないのです。分からないからこそ、どこまでも尋ね求めて行くのです。

それこそが信仰者の一生です。そして、そんな道中にこそ、イエスさまが共に歩んで下さる御姿を垣間見るのではないでしょうか


【会報「行人坂」No.241 2010年10月17日発行より】

posted by 行人坂教会 at 17:59 | ┗こんにゃく問答