2013年07月15日

地の塩、世の光【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」(5:13)

1.《ほんの少し》観念的にならないように「蝋燭と塩と石鹸」を思い浮かべて見たら如何でしょう。いずれも我が身を削って初めて役に立つのです。自分の身を擦り減らさないことには真価を発揮しなのです。そして、いずれも少量で良いのです。何事にも適量があるのです。出しゃばりや厚かましさは逆効果です。むしろ、慎ましやかさや目立たぬことに価値があります。

2.《地にあって》イエスさまは「地の塩、世の光」に、弟子たることの意義を説いておられます。「地の塩になれ」とは言われません。イエスさまを知って、共に生きようとする時、私たちは既に「地の塩」とされているのです。それは御大層な目標ではなく、「地にある」のです。但し、塩には「塩気、塩味」があるのですから、それをこの地域にあって発揮していかなくてはなりません。教会から一歩出た時から、私たちの「塩」としての真価が問われるのです。

3.《世にあって》イエスさまによって既に「世の光」とされているのに、私たちは、折角の灯火を計量カップで覆って消してしまうのです。臆病さや甘えや気兼ねや責任逃れです。放って置けば、自ずと輝いているのです。「隠そう」とするのは、却って自己顕示欲の裏返しなのです。16節の「立派な」は「魅力的な」と訳すべきでしょう。自分本位ではなく、人間味に溢れ、人情の機微を知っている人は、自身も周囲もワクワクさせるのです。神さまが「その独り子を賜った程に」   愛された「この世」を、私たちも愛して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から