2013年08月25日

夏休みの忘れ物

1.宅配便

滞在する先方に、事前に宅配便を送って置く。あるいは、帰る直前、自宅宛てに宅配便を送って置く。恐らく、誰もが普通にしていることです。出来るだけ手持ちの荷物を減らすためです。車椅子の同伴者があれば尚更です。

今年も夏休みを利用して、鹿児島大学の霧島リハビリテーションセンターに、二男を入院させることが出来ました。とは言え、昨年より1週間ほど短い日程でした。しかも、長男の夏期講習があり、彼を独り東京に残して置くことも出来ませんでしたから、往路と前半の11日間を妻が担当し、後半の11日と復路とを私が担当するように、夫婦で交替して、病院の付き添いに当たりました。

霧島を離れる数日前に、病院の売店で段ボール箱を貰って、逗留しているホテルに持ち帰り、済んだ物から少しずつ箱詰めをして行きます。やり終えた夏休みの宿題、読書感想文、読み終えた本、洗濯して畳んだ着替え、病院の陶芸教室で作ったお皿、お土産…。前日夕方には、段ボールは満タンに成り、発送を終えることが出来ました。ところが、不思議なもので、退院の朝、病院に行ってみると、後から後から荷物が出て来るのです。結局、二男の旅行鞄も私のリュック(ドイツ陸軍の背嚢です。オーケーへの買い出しにピッタリ)も、気付けばパンパンに膨らんでいました。

さて、帰宅して翌々日、霧島から段ボールが届きました。箱から出して整理して行くのですが、何かが足りないような気がしてなりません。入れ忘れてしまった何かがあるのです。それは、こちらに送り届けることの出来ないものなのです。それは、私自身が目を閉じて、思い出すことで、漸く脳裏に広がって行く情景なのです。

2.十字架

霧島リハビリテーションセンターの庭には、小さな東屋があって、足湯を楽しむことが出来ます。勿論、盛夏の真昼間、屋根があるとは言え、そんな所で足湯に浸かる人は誰もいません。それでも、二男が足湯に入りたいと言うので、装具を脱がせて、足湯に入れてやりました。私は彼が倒れないように背後に立って、上体を支えています。

真夏の青い空に、白い入道雲、山々の緑、蝉の鳴き声、滴る汗、あちらこちらから温泉の白い蒸気が立ち昇っています。

二男が山の上に目を遣って、「十字架」と言いました。見れば、山の頂上に1本、大きな松の木があって、中央の幹から左右の手のように枝が分かれていて、その有様は「十字架」のようです。ホテルや道路から見ていた時には気付きませんでした。角度が違うと、まるで分からないのです。しかし、病院の庭の足湯に座って見ると、その角度からは、確かに「十字架」に見えるのです。それも、リオデジャネイロの「コルコバードのキリスト像」に見えるのです。御存知でしょうか。山の上で、キリストが両腕を広げて、全ての人を迎えてくれているのです。ポルトガル語の正式名称は「Cristo Redentor/贖い主なるキリスト」と言うのだそうですが、あのキリスト像のように見えるのです。

所謂「心霊写真」と同じです。記念写真の背景に写り込んだ木や草の葉っぱや岩石が人間の顔に見えたりするのです。それは、私たちの脳が「人間」を「顔」として認識するシステムを持っているからです。幼児に絵を描かせれば、巨大な円形に目と口のある顔で、それに申し訳程度に手足の線画が付け足してあります。認識論的には、あれこそが最もプリミティヴな「人間」の姿なのです。

つまり、私たちは常に「顔」としての「人間」を無意識に、あらゆる風景の中に探しているのです。言うまでも無く、単なる目の錯覚なのですが、そんなことを言ったら、私たちの認識するものは全て錯覚と言っても良いのです。恋をすると、相手が美しく見えるのも錯覚なのです。赤ん坊が可愛く見えるのも錯覚なのです。家族が仲良く幸せに感じるのも錯覚なのです。ペットの犬猫が懐いてくれていると思われるのも錯覚なのです。自分が職場や社会から評価されていると考えるのも錯覚なのです。

しかしながら、錯覚は錯覚であっても、どのような錯覚を見るかということが問題なのです。「心霊写真」には何の意味もありません。しかし、恋人が美しく思われ、赤ん坊が可愛く見え、家族が幸せに感じる、それは大きな意味のあることなのです。それを説くことが信仰です。同じように、山の上の1本松に、両腕を広げて万人を迎えんとするキリスト像を重ね見ることもまた、意味のあることなのだと思います。

3.愛の歌

ボサノバの名曲に「コルコバード/Corcovado」があります。それこそ、キリスト像の立つ「コルコバードの丘」の情景が歌い込まれています。アントニオ・カルロス・ジョビンの作詞作曲です。ジャズの名盤『ゲッツ/ジルベルト』では、英詞も付けられて「Quiet nights of quiet stars」(アストラッド・ジルベルトのヴォーカル!)という歌い出しでも知られています。素晴らしい歌詞(ポルトガル原詞)なので、ご紹介しましょう。

「1つの場所、1本のギター/この愛、1つの歌/それらが愛する人を幸せにする。/考えるための静寂と/夢見るための時間がある。/窓の向こうにはコルコバードの丘が見える/キリスト像が美しく微笑み掛けている。/…/悲しみに沈み/世界を信じられなかった私が/あなたに出会い/知ることが出来た/幸せの意味を。」

きっと、コルコバードのキリスト像も、イエスさまがマルタに仰ったように「大切なものは数多くは無い。たった1つだけなのだよ」(ルカによる福音書10章42節)と、作詞者に語り掛けたのでしょう。そんな、胸の熱くなる詞ではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2013年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:59 | ┣会報巻頭言など